幸せになろうよ

「樺地さん……」
 耳に快いソプラノの声。ああ、この人は――。
「菜々子さん……」
 樺地崇弘がそう言うと、菜々子は微笑んだ。そして――目が覚めた。
「ウ……」
 菜々子の夢を見るなんて初めてだ。悪い夢ではなかった。ただ、樺地には心にかかることがあった。それは――。

「おー、良かったじゃねぇか」
 樺地が悩みに悩んだ挙句、夢の話をすると、跡部景吾が嬉しそうな笑顔を見せる。跡部は機嫌が良さそうだった。
「いい、んですか?」
「おうよ。それだけ菜々子さんのことを好きだってことだろう? 愛してるってことだろう?」
 好き、愛してる――。……では、これがその感情なのだろうか。イエス、と心のどこかで返事がした。
 越前菜々子。跡部の恋人の越前リョーマの従姉妹にあたる。
 最初から好印象を抱いていた。でも、まさか、恋することになるとは――。跡部はどう思うだろうか。などと考えていたが、杞憂だったようだ。
「俺様は今幸せだからな。お前が幸せになると俺も嬉しい」
「ウ……」
 樺地は返事に困った。
 目の前の自分の主。跡部は祝福してくれている。だが、樺地は跡部に忠誠を誓った。どんなことでもしようと思った。どんな無茶にも耐えて来た。菜々子と家庭を持ったら、そんなことはできなくなるのではないか。
「樺地。今、俺様は本当に嬉しい」
「――ウス、しかし……」
「俺様だったら大丈夫だ。今まで通りいい友達でいような」
「ウス」
「菜々子さんからは告白されたんだよな――もしかしたら結婚まで行くかもしれないんだろ?」
「ウス」
 自分が結婚するなんて考えたことなかったが――そうなるかもしれない可能性は出て来た。
 それに、樺地にとっては菜々子が初恋だった。
 今までのように跡部の世話をすることが出来なくなっても、跡部は許してくれるだろうか。
「跡部さん……一人で、大丈夫ですか?」
「あーん? 俺様は一人じゃないぜ。越前もいるし、ミカエルもいるし。まぁ、お前のことは、菜々子さんに取られたみたいでちょっと寂しいけどな――って、何言ってんだ俺」
 その台詞を聞いて、樺地はちょっと安心した。
 それでは、ずっと跡部に仕えていたことも無駄ではなかったのだ。跡部も自分のことを大切にしてくれているのだ。
「お前と菜々子さんのこと、大々的に発表するか?」
「ウス、ウス」
「何だ、嫌か?」
「――ウス」
「だよな。お前は目立つの苦手だったよな。大丈夫。今のは冗談だ。皆俺様みたいに派手好きって訳でもねぇからな」
 跡部にも派手好きと言う自覚はあるようだ。
「跡部、さん。貴方に会えて良かったです……」
「何湿っぽいこと言ってんだよ。まだまだこれからじゃねぇか」
 跡部がまた笑った。
「菜々子さんと幸せになれ、樺地。俺様からの命令だ」
 そして、跡部は樺地の肩を叩いた。
「ウス」
 樺地は顔が綻んでいくのが自分でもわかった。
「お前、菜々子さんにプロポーズしたか?」
「いえ……」
「何だよ。この甲斐性なし」
 跡部は心安立てに樺地の厚い胸板を軽く小突いた。
 跡部も、自分も、幸せになるんだ……。菜々子も樺地の心はわかっているとは思うが、樺地はあまり好意を口にしたことはない。けれど、こういうことは自分で伝えなければ意味がないのだ。
「ありがとうございます……。跡部さん。今までお世話になりました」
「お暇を頂くって訳か。樺地の淹れた紅茶、今までは俺様が飲んでたけど、今度は菜々子さんが味わうことになるんだな」
「ご入用なら跡部さんのも淹れますが……」
「恋人同士の甘い生活に割り込むほど俺も野暮じゃねぇよ。でも、リョーマがいなかったらわかんなかったな」
 跡部がふふふ……と笑った。跡部はいつも明るいが、今日はいつにも増して輝いている。
 跡部にはリョーマがいて良かった。自分にも菜々子がいて良かった。
「さ、仕事も終わったし、そろそろ帰るか」
「ウス」
「お前は口下手だから少し心配なんだがな……お前からも菜々子さんに好きだって伝えるんだぞ。それも、一回だけでなく、何度も、何度もだぞ。それを怠ったばかりに俺様はしなくてもいい苦労をしたんだからな」
 跡部の台詞は跡部自身の体験談からだった。
「ウス」
「でも、俺の元から樺地も巣立って行くんだな……。しばらくは寂しいかもしれんが、お前が幸せになった方がいいもんな。――互いに、幸せになろうな。樺地」
「ウス」
 跡部も樺地も別々の人を愛した。そして、自分の意志で幸せを掴み取る。
「忍足も岳人といい感じらしいぜ」
「ウス」
 あの二人にも世話になったから、手に手を取って協力して仲良くして欲しいと樺地は思った。
 菜々子さんにプロポーズしよう。
 樺地はぎゅっと拳を握る。跡部が自分の背中を押してくれた。跡部は樺地やリョーマ達以外には目にしたことがないんじゃないかというぐらいの全開の笑顔を見せた。

 デートの待ち合わせの場所。ここからは夜の港がよく見える。
「……菜々子さん」
「崇弘さん!」
 菜々子は今日はピンク色系の格好で決めて来ている。ハンドバックだけ赤だった。樺地の鼓動が早くなった。年上なのに、菜々子は少女のように可憐だ。
 菜々子はこんなに綺麗だっただろうか。第一印象から美やかな人だなとは思っていたが。
「遅くなっちゃいました?」
「いえ、時間通りです」
「そう? 良かった」
 高いヒールなのに、息を切らして走って来た菜々子を樺地は愛しいと思った。
 守りたい。この人を。
 跡部さん、すみません。貴方の他に、守りたいと思う物が出来てしまいました。
「今日はどこに行きましょうか」
「――ちょっと話があるのですが」
「なぁに?」
 菜々子が可愛く首を傾げる。樺地は跡部のアドバイスを思い出した。
「――好きです」
「知ってるわ」
 菜々子はくすっと笑った。樺地は腹を決めた。
「――こんなことを言うのは唐突かもしれませんが……結婚してください」
 樺地の台詞に菜々子は目を丸くして、やがて破顔一笑した。
「嬉しい!」
 菜々子は樺地の筋肉質の体に抱き着いた。そして、我に返ったように抱擁を解いて少し離れた。
「あ、ごめんなさい……」
「いいえ。俺も、嬉しかったです。それから、これ――」
 箱を開けて菜々子に見せたのはエメラルドの指輪。ダイヤよりこっちの方が似合うと思って。
「婚約指輪、です」
「崇弘さん……」
 菜々子が泣き出した。樺地がおろおろし出すと、菜々子が「嬉し涙なの」と言ってはにかんだ笑顔を見せた。その笑顔に樺地は見惚れた。
 ありがとう、と菜々子は言った。彼女は指輪を自分の左手の薬指に嵌める。そして、最高の微笑みを顔に浮かばせた。それはいつぞや樺地の見た夢と同じ微笑だった。
「崇弘さん……幸せになりましょうね」
 樺地は心から何者かに対する感謝が込み上げて来て「ウス」と頷いた。

後書き
あははははは。
樺菜々なんてカップリングを書くのは私しかいないだろうな。きっと。
2020.10.09

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