二度目の恋していいですか?

 ここはイギリスのキングスプライマリースクール――
「どうしたの? あとべ」
 樺地崇弘が訊いた。
「かばじ……」
 跡部景吾。日本で言う幼稚園の年長組である。
「みるな、かばじ。いまのおれはさいこうにかっこわるい」
「そんな……どんなあとべだってあとべはかっこいいよ」
 跡部は涙を拭う。樺地はただおろおろするばかり。
「あとべ、あとべはみんなのたいようなんだからわらってなきゃ」
「わかってる、わかってるよ……」
 でも、涙は止まらなくて。――そのうち樺地も泣き出した。
「かばじ?」
「あとべがかなしいと――おれもかなしい」
「だからってなかなくても……」
「じゃあ、どうしてあとべはないてたの?」
「おれのナニーが……くににかえってしまったの」
 ナニー。乳母のことである。実は、跡部は乳母に恋をしていた。好きだ、といつも言っていた。暇さえあればまつわりついていた。
「くに……?」
「ふるさと、だって」
 そこで彼の乳母は結婚するのだと言う。樺地がハンカチを取り出して、跡部の頬を濡らした涙を拭った。
「なかないで。おれが、あとべのナニーになるから」
 樺地にはナニーがどんな存在か知らなかった。樺地家は跡部家ほどの資産家ではないから、乳母というものには無縁だった。
「ばか……ナニーはおんなだぞ」
 ちょっと元気が出て来た跡部に樺地はほっとしたようだった。
「じゃあ、おれがおとこのナニーになる」
 いわゆる傅(めのと)である。
「でも……」
「おれ、あとべがげんきでるようになんでもするから」
 ドキン……。
 樺地の真剣な眼差しに跡部の胸は踊った。
「おれ、あとべのことだいじにするから……」
 跡部は思った。
 ああ、神様。俺、二度目の恋をしていいですか?

「あの頃の樺地は可愛かったなぁ……」
「何の話だC~」
 ジローが跡部――中学三年生になった跡部に訊く。
「ん? 子供の頃の樺地は可愛かったなぁって話」
「それは樺ちゃんに失礼だC~」
 ジローはこう見えて人の心の機微に聡い。樺地は黙々と観葉植物に水をやっていた。
「今はどう見えるんだC~」
「ん?」
 跡部は樺地に目を遣った。一見ぼーっとしているような顔。でかい図体。けれど、その心は温かい。まるで草食恐竜のようだな、と跡部は考える。
「草食恐竜だな」
「恐竜! かっこいいんだC~!」
 ジローがキラキラ目を輝かせている。
「そんで、とても俺様の気持ちを汲んでくれる」
「うん。樺ちゃんは跡部の恐竜なんだ」
「まぁ、そういうことだな」
 この関係はもう十年も続いている。跡部には不可能はないが、樺地はもっと頭が良くて器用だ。それでも、跡部は樺地の才能に嫉妬することはない。むしろ、樺地が何でもできるのが得意であった。
 樺地は俺の女房だからな――。
 十年前に神に誓った二度目の恋は今も続いている。
 年を経るごとに、樺地は男らしく、有能になって行った。樺地みたいな秘書がいたらいいな。跡部はそうも考える。そしたら、ずっと一緒にいられる。仕事中も、ずっと。
 跡部には樺地以外の仲間も増えた。友達が増えないのは、これはもう性分だから仕様がない。
 お金持ちのボンボンだから、人の付き合い方もよくわからない。だが、全てが金で解決するわけではないのは跡部は昔からよく知っている。ただ、常人とはかけ離れた生活を送ってきたせいで少し――というか結構我儘なのも仕様がない。
 跡部は樺地に自分にはない美点を見出している。それは、人間にとってとても尊いものだ。例えば、他人を思いやる気持ちだとか、必要な時に必要なものを差し出せる臨機応変さとか――。
 金をばらまけば、人はある程度ついてくる。でも、それは跡部が求めていることと違う。跡部は心の大きい人間になりたかった。樺地のように――。
「樺地、それが終わったら休憩しないか?」
「俺にとっては仕事が休憩です」
「さっすが樺ちゃん。俺にはとても真似できないんだC~」
 ジローがソファから伸びをする。樺地が微笑んだように見えた。
 樺地の微笑み。それは、跡部やその仲間以外は滅多にお目にかかれない。何となく樺地に選ばれた気がして、跡部はこっそり得意になる。
「じゃあ、樺地。紅茶淹れろ」
「――ウス」
 跡部ももう子供じゃないんだから紅茶ぐらい淹れられる。でも、樺地の淹れた紅茶には敵わない。ちょっと悔しさを覚えるが、こんなにすごい男が自分のことをいつも気にかけている――それが優越感に変わる。
 俺の眼に狂いはなかったな。
 跡部は審人眼が鋭い。自分でもそれを自覚している。跡部財閥の御曹司として、今まで人を見る目は鍛えて来たつもりだ。
 樺地は最上級の人間の部類に入る。欲目もあるかもしれないが。樺地のことで得意になると同時に、跡部は一方で彼に対して済まながっている。
 ごめんな、樺地――。
 もっと偉い人の右腕になることだってできただろうに、俺なんかの為に――。跡部は樺地を自分の元に繋いでしまったことを少し後悔している。
 俺なんかで、ごめんな。俺様にできることは、世界一偉い人間になることだ。地位も財産も、中身も――さすがは跡部、と呼ばれるような男になって、樺地を得意にさせてやりたい。
 この世界の王様として君臨する。
 跡部はそれを目標としている。自分が恋をした樺地が『俺はあの跡部景吾の側近なのだ』と胸を張って自慢できるように。
 樺地を幸せにしてやりたい。樺地にとってそれは既に叶ったことなのであるが。
 跡部は知らない。跡部といるだけで樺地は幸せなのだということを。そして、樺地は跡部に対してもっと幸せになって欲しいと願っていることを。
 誰にも跡部景吾の側近の座は渡したくないと思っていることを。
 それを皆に話したら、少数の例外を除いて、
「や、誰もそんな座求めてないし、いらないから」
 というかもしれないが。樺地の思考を跡部は知らない。知らないけれど、奥深いところで繋がっている。
 樺地が紅茶を持ってきた。紅茶を嚥下する跡部は絵になる。こんな美味しいお茶を飲めるのは跡部だけの特権。他人には、同じ部屋にいる客に対しては仕方がないから分け与えてやる。
 今は、ジローがそうだった。忍足は職員室の面々に重宝がられて先生から役目を仰せつかっているし、宍戸は鳳と図書室に行っている。何をしているのだかしらないが。日吉と向日はテニスコートで打ち合っている。
「樺ちゃんの淹れたお茶、おいC~」
「だろう?」
 跡部が得意そうに笑う。
「別に跡部に言ったんじゃないC~」
「おい、樺地。ジローはお茶のお代わりはいらないそうだ」
「嘘言ったわけじゃないC~。ていうか、お代わりほC~」
「わかりました。じゃあ、これは俺から、です」
「やったー。樺ちゃん、跡部と違ってやっさC~」
「おい。樺地。ジローを甘やかし過ぎるな」
 お前が甘やかすのは俺だけでいい――そんなニュアンスを含ませて跡部が樺地を睨む。
「――ウス」
 樺地は跡部に滅多に逆らわない。無理難題を言ったって、いつだってついてきた。
「このお茶、すっごい甘い匂いがするC~、砂糖なくても美味しいC~」
「ダージリンだ。樺地特製のティージャムが入ってる」
「へぇ~、ダーリンておいCんだ~」
 ジローの言い間違いに跡部は苦笑する。そして、樺地の方を見る。樺地も跡部を見て少しばかり口元を緩める。
 跡部はもうすぐ中等部を卒業する。樺地とはしばらく離れ離れになるわけだ。後輩達とも。そんな未来が少し寂しい。だから、それまでみんなで一緒に思い出を作りたい。
 植物達が気持ちよさそうに日の光を受けている。
 ――そんな、氷帝学園中等部テニス部の放課後。そんな、跡部の今もまだ続いている二度目の恋。

後書き
樺跡です。いろんなところで言ってるけれど私は樺跡も好きです。
これはハマりたての頃書いた話ですが、ちゃんと樺跡書いてた時期もあったんですねぇ。
今はリョ跡ベースの話を書いてます。まだ発表してる分はまだまだ少ないけど。
2015.9.28

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