グラン・ギニョール

「グラン・ギニョール?」
 受話器に向かって俺がその言葉を発した途端、アフガンバウンドのマルガレーテが首を擡げて、瞬間、飛びついて来た。
 ――そして、ペロペロと俺の頬を舐める。
「あはははは、くすぐったいよ! マルガレーテ!」
 瞬間、これはコロンボのトリックを使ったいたずらだな、とわかった。
 俺、幸村精市は立海大附属中学のテニス部部長。長い間闘病してたが、この間ついに退院出来た。
 このいたずらを仕掛けたのが景吾。フルネームは跡部景吾。知っている人は知っているし、知らない人は知らない。――何当たり前のこと言ってるんだ? 俺は。
 この跡部景吾というのが、世界に冠たる跡部財閥の御曹司というのだから、世の中はわからない。大丈夫か世界。
 そうそう。この景吾というのと俺が、悪友と言うか、ミステリを通じての友というか――。
 いつも二人でミステリのトリックを使って遊んでいるんだ。

 ことのおこりは数分前。跡部から電話がかかってきた。――マルガレーテが傍で寝そべっていた。
『よぉ……幸村』
「いつも通り精市でいいよ」
 俺だって景吾って呼んでるし。
『んじゃ精市。俺様、どうしてもわからない単語があるのだが――』
「俺のわかる範囲で答えるよ」
『どうも――』
 景吾はいつもより大人しい。
「どうしたの? 景吾。いつもより元気がないね」
 わからない単語があるということが、そんなに恥ずかしいことなのだろうか。景吾が恥を知っているとは驚きだが、どうやらそうでもないらしい。
『実は俺様、小説を書こうと思ってな』
「小説? 君が?」
 まぁ、彼が意外に読書家なのは知っていた。シェイクスピアの愛読者であることも。時々、入江と共にシェイクスピア談義で盛り上がるらしい。
 ――どうでもいいけどさ。
 仲間に入れられないからって僻んでる訳じゃない。――ほんとだよ。
『んな驚くなよ』
「ははっ、悪い悪い。君に小説を書ける頭があるとは知らなかったものでね」
『てめぇ――』
「君が財閥の力で本を出版したら、俺が真っ先に読んで酷評してあげるよ」
『……何でこんなヤツが俺様の友達なんだ……』
「俺は君の友達になった覚えはない」
 嘘である。けれど、景吾には効いたらしく、電話の向こうで呻いていた。
「それで? どういう単語?」
『確か、フランスの言葉だったな。あ、その言葉がトリックの鍵になっててな?』
「いいから早く言いなよ」
 俺はちょっと苛々してきた。
『急かすなっつの。んで、ある劇場の名前なんだけど、「血腥い」とか? 「こけおどしめいた」とか? 何かそんな意味の言葉で――』
 俺にはぴんと来た。もしかして。
「グラン・ギニョール?」
 その時だった! 今まで寝ていたマルガレーテが急に起き上がって、俺に体重をかけて来た。俺の頬を懸命に舐める。いつも清潔にしてあるせいか、犬特有の臭さはない。
「あはは。くすぐったいよ。マルガレーテ! マルガレーテ!」
 マルガレーテは俺の顔を舐めるのを止めない。
『ふん……引っかかったな』
「引っかかったなって――こんなのトリックの初歩じゃないか。グラン・ギニョール――ああ、待っててね、マルガレーテ――という言葉を口にした瞬間、マルガレーテがじゃれつくように調教したんだろ?」
『グラン・ギニョールは、マルガレーテに対する愛情表現の合図になっている。そんで、マルガレーテの『私もあなたが好きよ』という行動に繋がるんだ』
「でも……俺に犬のアレルギーがあったらどうするんだい?」
『それは医師とも相談済みだ。お前には犬のアレルギーはない!』
 そうだね――でも、ちょっと重くなって来た。
「ま、マルガレーテ。ちょっと落ち着こう。ね?」
『ダメだ。今はまだスイッチが入ったきりだ』
 うーん、どうすればいいのかなぁ……。
「景吾。マルガレーテを鎮めるにはどうしたらいい?」
『――そこまでは考えてなかった』
 景吾め……。だからこそ、一部では『あほべ』と呼ばれるんだ、君は。
 ドラマでは、キーワードは『ばらの蕾』というものだったけど――。あ、『ばらの蕾』というワードは、『市民ケーン』という映画を観ればわかるよ。このトリックは、普段は使わないけど、大抵の人が知っている言葉を使うのが効果的なんだ。
 俺は一応、『ばらの蕾』と言ってみたが、効果はなかった。
 ま、俺だって策がない訳じゃないけど――。
「幸村さん、何笑ってんの?」
 ドアを開けたのは越前リョーマだ。俺は彼のことをボウヤと呼んでいる。
「ああ、ボウヤ――」
「マルガレーテ……」
「ボウヤ、ちょっとはっきりと、『グラン・ギニョール』と言ってみてくれない?」
「? ――グラン・ギニョール?」
 マルガレーテは今度はボウヤに飛びかかった。ボウヤは小さい体でやっとマルガレーテを受け止める。
「あははは。どうしたの? マルガレーテ!」
「さっきの『グラン・ギニョール』という言葉は、キーワードになってたんだ」
「それでマルガレーテが……あはは、可愛いね。マルガレーテ」
 さてと、マルガレーテはボウヤに押し付けたし。後は――。
「それにしても景吾、俺をよく殺さないでおいてくれたね。ありがとう」
『てめぇを殺すと後がこえぇかんな』
「あれは殺人のトリックだったろう?」
『『ばらの蕾』、『グラン・ギニョール』、普通は使わない言葉なら、キーワードとして機能するんじゃねぇかと思って試してみた』
「試してみたって――景吾、お前、俺を騙したね……」
『殺そうとしなかっただけでもいいじゃねぇか。それに、俺もお前には何度も騙されてる』
「そうだったね。お前は騙しやすいからね――後で覚悟しとくんだね」
『わぁってる。楽しみにしてるぜ』
 ガチャン、ツー、ツー。
 電話は一方的に切れた。
 ったく……。愛らしい淑女のマルガレーテをこんなビッチに仕立て上げるなんて――。
 お仕置きが必要だね。これは。
 マルガレーテが景吾の飼い犬であることはこの際関係はない。俺はちょっと怒っているんだ。
 ボウヤは動物への耐性が出来ているのか、今もまだマルガレーテと遊んでいる。
「……ねぇ、マルガレーテ。俺が跡部さんと結婚したら、マルガレーテも俺のものだよ。カルピンとも仲良くなれるといいね」
 ボウヤが言った。……一部、聞きたくない単語があったようだが気にしない。マルガレーテは景吾が躾け直すことだろう。あ、カルピンというのはヒマラヤン――ボウヤの飼ってる猫なんだ。
 ヒマラヤンなんてボウヤのくせに生意気だね。ボウヤなんか雑種でも飼っていればいいんだ。どうせ猫の飼い方も碌に知らないんだろうからさ。
 俺がボウヤにきつく当たり過ぎるって? だって、俺、ボウヤにテニスで負けたもん。
 景吾も負けて坊主頭――というか、あれはベリーショートだよね。ボウヤが景吾をベリーショートにしたいから、勝負を受けたんじゃないかっていう噂が、ほんの一部には、ある。
 ――マルガレーテもちょっと疲れて来たみたい。興奮していた彼女も少し、大人しくなった。ボウヤが優しい目で、マルガレーテの頭を撫でる。ボウヤのいつもの生意気さは影を潜めている。
 いい目だ。
 ボウヤ、マルガレーテだけじゃなく、景吾にもその目をしてやったらどうだい。景吾単純だから、案外簡単に落ちるかもよ。
 俺の知ったことじゃないけどね。
 さてと、景吾が来たらお菓子をせしめてさっさと帰るか。
『グラン・ギニョール』――か。今回は俺もちょっとびっくりしたね。仕返し、楽しみに待ってなよ。景吾。
 ああ、そうだ。――マルガレーテが疲れて眠った後、俺は言った。
「ボウヤ、ちょっと手伝ってくれないかい?」
「え?」
「跡部景吾を騙す手伝い」
「何それ。すごく面白そう」
 ふふ、ボウヤも俺と同じ人種であることは初めからわかっていたよ。俺とボウヤは、にやっと笑みを交わした。

後書き
2019年3月のお礼画面です。
妹が教えてくれた刑事コロンボのトリックを使って書いてみた作品です。
妹はミステリが好きです。拍手押してくれた方々、――そして、妹。どうもありがとうございます。
2019.04.02

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