哀しみよりも深い絶望

 私は愛する者を殺しました――。

 妊娠を知った時、私は即座に堕胎を決意した。
 生きて行く為には仕方がないと思った。
 あれはほとんど強姦に近かった――いや、強姦そのものだったから。
 私は、その相手を愛していなかった。愛せなかった。
 私はすごい霊的体質で、学校にも殆ど行かなかった。
 ジョゼ・ルージュメイアン――私は自分でその名をつけた。親から与えてもらった名は忘れてしまった。それはどうでもよい。私はたくさんの名を持っているのだから。
 ジョゼ、というのは、私の半身である男がジェームス・ブライアン――Jのついた名だったので、真似をしてつけた。私はこの名が気に入っている。
 それで、その赤ん坊は、生まれる前に死んでしまった。
 私が――殺した。
 その時は何とも思わなかった。
 けれど、今飼っている黒猫が私のところに来た時――。
 その信頼に満ちた目、その緑の目を見た時――私は何かを愛することが、どんなことであるかを知った。
 生まれて来なかった赤ん坊。
 私はその猫にサロニーと名付けた。殺し屋のエティアス・サロ二ーも望まれなかった赤ん坊だった。
 世の中に、愛されて生まれてきた存在ではないと知ることほど、辛いことはない。私もそうだったから。
 哀しみよりも深い絶望。
 J・B――ジェームス・ブライアン、いや、マイケル・ヴォイド・ネガットもそうだったのだろうか。
 彼は父親の(世間的には叔父の)アーサーには疎まれていたが、母イライザには愛されていた。
 ジェームスは生まれて来るはずのないところから生まれて来た。
 アーサー・ネガットが、姉のイライザを犯したのだ。
 イライザは、ジェームスを通して、愛することを知った。彼女は、生まれてもいない我が子を愛していた。
 この美しい世界を見せたかったのかも知れない。彼女もその世界を見た。
 瀕死の重傷を負いながらも、ジェームス――いや、マイケルを産んだ。
 友人の画家ハーヴ・ハスキンスと相談して、ミドルネームをヴォイドとつけた。この事実を知っている者は数少ない。私はその一人だ。
 私はJ・Bのことなら何でも知ってる。生い立ちや苦悩や、好き嫌いのことまで。もっとも、彼が嫌う人やものなど、滅多になかったが。サロ二ーやワイエスでさえ、彼は愛した。彼と上手くいかない人は、どうしてかわからないが、彼の片恋のひとになるらしい。彼は博愛の権化だ。
 私も、子供を産んでいたら、そう育てることができたであろうか――自信がない。
 J・Bにも昔は憎んでいた人がいた。憎しみの果てに――愛を知った。
 J・Bは愛を知り、愛する人に囲まれて暮らしている。それは、彼が絶望を知っているからだ。
 彼が優しいのは、絶望を知っているからだ。
 もし、私が子供を産んでいたならば、私はその子を彼のように育てたかった。
 救いを知る、子供のように。
 強く、優しく生きて欲しかった。思いやりのある子に育って欲しかった。敵をも愛する器の大きな子に育って欲しかった。男か女かわからないうちに、殺してしまったけれど。
 J・Bのように、生きて欲しかった。
 けれど、当時の私は孤独で――今よりももっと孤独で、子供を愛するということを知らなかった。
 私は、イライザのようにはなれなかった。
 あの本当の強さを持つ女性にはなれなかった。
 だから、サロニー――猫のサロニ―を深く愛そうと思った。私が殺した赤ん坊の分まで。
 そしたらいつか、愛への扉は私の前に現われてくれるかもしれない。
 いや、もう既に現われているのかもしれない。
 私は彼らを愛し、彼らも私を愛している。
 本物のJ・Bに会えたことが何よりも嬉しい。私は彼が好きだから。
 尤も、彼とは寝たことはない。私が恋しているのは、フロイド・アダムスと言う、彼の友人だ。
 タフで男らしくて、純情で優しくて――彼の子供が欲しい。
 そうしたら、この世の素晴らしさを教えてあげたい。
 私が殺した――赤ん坊の代わりに。
 いや、代わりの存在など、この世には存在しない。あの子はあの子だ。もう帰って来ない。
 罪悪感はない。愛する者をこの手で殺したという哀しみはあるけれど。
 だから、世界中の人々を愛そうと思った。J・Bのように。
 イライザはJ・Bを命をかけて愛した。J・Bが強いのは、彼が愛されているからだ。
 イライザは、J・Bに会うことを願った。心の底から。
 彼女こそ、本当の母親だった。
 死んでも、彼女はアーサーのことを話さなかった。
 ただ、その子が生まれてくることを願った。常人を超える精神力で。
 J・Bは母に似ている。外見はたとえ父親似でも。
 アーサーも彼を愛そうと思ったが、愛せなかった。あの男にも罪の意識があったのかも知れない。
 けれど、何とか十一まで育てた。いや、育てたのはパデュラ夫妻か。
 死ぬ前にJ・Bに会えて安心した。彼を心から愛してやまなかった。私の子供のように。世界中の、生まれてくることができなかった子供のように。
 この子を――愛したかった、愛したかった、愛したかった。
 愛している、愛している、愛している。
 私にイライザほどの強さがあれば、事情はまた違っていたかも知れない。
 だが、それも詮ない繰言。できた子供を殺さなければ、生きていけないと当時の私は思っていたのだから。
 また子供ができたら、今度こそ一生懸命愛そうと思う。命の限り。
 だが、多分私にはもう子供はできない。私には自分の運命がわかるからだ。
 フロイドが寝物語に言った。
「俺とあんたが上手くいくわけ――わかるか?」
「どうして?」
 と、私が訊くと、
「あんたには不幸の匂いがする」
 と、乾いた声で答えた。私にはその答えが何となくわかった気がした。
「ビアトリスには不幸の匂いがしないからな……俺はそういう女とは決まってだめになるんだ」
 自嘲の響きが混じっているような気がした。気のせいかもしれないけれど。ビアトリスとは、ハーディの妻で、J・Bの友達の一人だ。
 フロイドも、幸せな家庭を持つことを考えたことがある。自分がいて、奥さんがいて、子供がいる――だが、それはフロイドには縁のない世界。だから、憧れるのかもしれない。私も、彼も。
 神というものがもしいるなら、その存在は気まぐれで、人によって幸せを与えたり、与えなかったりする。
 いや、そうではないかもしれない。人は、絶望の果てに幸せを掴むのだから。
 気の毒な――そして幸せな、イライザ・ネガットのように。
 私に子供が生まれていたら、その子にサロニーと名付けていただろう。彼が今度こそ、幸せになるように。祈りを込めて。
 私はサロニーのこともよく知っている。彼の人生の道のりや、生い立ちのことを。
 そして、どうして彼が殺し屋になったのかも。
 彼は子供の頃、苦労した。人とは違うことに苦悩もした。
 早く大人になりたかった。そうしたら、この絶望から抜け出せる。
 彼の心は、私の子供の頃の心そのままだった。
 私は自分が人と違う存在であることを、早くからわかっていた。両親は私を不気味がった。なるべく外に出さないようにした。
 その世界では、私は必要のない存在であった。
 だから私は、死ぬ前に、私を愛してくれる存在と共に暮らしたかった。
 それが、J・Bであり、フロイドであり、その仲間達であった。私は生まれて初めて、幸福という語の現す世界を知った。
 死んでしまったあの子にも――それを伝えたかった。幸福は遠くにあり、そして近くにあるものなのだよ――と。
 あの子もまたこの世に生まれてくるだろうか。そうであったらいい。そうしたら、私の絶望は報われるから。
 あの子が感じた殺される痛みも苦しみも、やがて消え去るであろうから。
 私は夢を見た。
 子供の手をひいて歩く夢を。
 その存在を何よりも代え難く、愛しいと感じる夢を。
 神様。もしいるのならば――私を元いたところへ返してください。
 今度こそ、私の夢が叶いますように。
 ささやかな幸せの中にいること。他には何も望みません。
 あの子を私の元へ返してください。もう二度と会えなくとも自業自得と知ってはいても。
 サロニ―……私の可愛い猫。ずっとずっと愛したい。命をかけて。生きることのできなかった、あの子の分まで。

 ――私は世界で一番愛していた者をこの手で壊しました。罰は受けます。だから、それまでこの人達と――ずっとずっと会いたかった、ずっとずっと求めてきた全ての人々と一緒に暮らすことができますように――。

後書き
『哀しみよりも深い絶望』……確か、杏里さんとのメールのやり取りで私が言ったんだと思います。
ジョゼは子供の命を奪ったことにより、後でその子のことを気にかけるようになるのではないかと思いまして。
フロイドとジョゼの間には、子供はできなさそうな気がします。もし二人の間に子供がいたら、ジョイが書いているはずですもの。『蜘蛛の紋様』にはそんな記述はなかったように思います。

2011.2.22


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