フロイドの再出発

 フロイド・アダムスが、ハーディとビアトリスの家の玄関のチャイムを鳴らした。
 出て来たのはビアトリスの夫、ハーディだった。そばには、太った中年の婦人がいる。
「なんだ、君か」
 ハーディは、反射的に嫌そうな顔をした。
「招かれざる客だったかな。俺は」
 フロイドが言った。
「いや、そんなことはないがしかし……」
 ハーディは困惑している。
「だったら、そんな顔をすんなよ。色男」
「――皮肉にしか聞こえないな」
「違いない」
 フロイドは、ははっと明るく笑った。
「君が変わってなくてよかった」
 ハーディも自然と笑顔になる。
「あんたのせいで俺が悲しんだとでも? 悪いが俺はそんなにやわじゃない」
「らしいな」
 フロイドは相変わらずだ。ハーディの表情も緩んだ。
「ビアトリスは元気か?」
「ああ。今、病院から帰ってきたところだ」
「会いに行ってもいいか?」
「ああ。手を出さなければな」
「妊婦に手を出そうなんて思っていない。そんなことしたら、あんたに殺されるからな」
「まぁな。――世間話だろ」
「ああ」
「フロイド――君はいい男だ、君にぴったりの女性はすぐに見つかるさ」
 フロイドは、もみあげが長くてしかも鷲鼻だ。身長も低い。だが、万人向けの美形とは違うものの、面白いように女が引っ掛かる。情熱家だから女性がほだされるのかもしれない。
 お金持ちのボンボンでもある。それも、プラス要因であるのかもしれない。
 だが、それをフロイド自身がどう思っているのかは、いまいちよくわからない。ロスアンゼルスの警部であるが、ボンボンであるところを最大限に利用してやろうと考えているのかもしれない。
 一度、ビアトリスと恋仲になったことがある。――振られてしまったが。
 肉体関係はなかった。その時既に、ビアトリスはハーディの子を宿していたからだった。
「可愛い子が産まれるだろうな。ビアトリスの子供だからな。俺は女の子の方がいいが」
「女の子でも、俺の子にちょっかい出したら許さないぞ」
「わかってるさ。それに、俺も今はちょっとした恋をしている」
 フロイドの言葉に、ハーディは目を細めた。
「――相手は誰だい?」
「上等の女さ。ビアトリスには負けるがな」
「俺の知っている人かい?」
「ああ。ジョゼだ」
「カーターにそっくりの女かい?」
 君もまた物好きな。その目はそう言っているようだった。
「今は髪を切って俺好みの極上の美女になってる。だから、ビアトリスのことは心配いらない」
「上手くいくといいな」
「ありがとよ」
 ハーディが体をどける。フロイドが堂々と家の中に入ってきた。
「ビアトリスはどこだ?」
「自分の部屋だ――アンナ、案内してやってくれ」
「わかりました」
 ハーディと一緒にいたお手伝いの婦人が答えた。
 案外広い家だな――と、フロイドは思った。フロイドの家ほどではないが。というより、フロイドの家の広さと豪華さが規格外なのである。
 そういえば、オーガス家も狭くはなかった。
(俺達、ずいぶん金のかかった生活してんなぁ。今に貧乏になってもしらんぜ、ったく)
 だが、極貧になっても、フロイドは決して卑屈にはならないだろうし、かえって生き生きしてくるだろう。
 それに、今は、彼のそばには不思議な力を持つ美女がいる。――魔女かもしれんが。
 どんな運命も、怖くはない。
 ジョゼがいるし、そもそも、フロイドは不測の事態には慣れっこなのだ。ただの坊っちゃんではない。
 ジェームス達には、「坊ちゃま」と呼ばれてからかわれていたが。
 アンナが、ビアトリスの部屋をノックした。
「奥様。フロイド・アダムス様がお見えですよ」
「通してちょうだい」
 間髪を入れずに返事が来た。
「では、私はこれで」
 自分の分を弁えているいい女中だ、とフロイドは思った。フロイドも子供の頃からそういうお手伝いさんにかしづかれてきたから、わかるのである。
「邪魔するぜ――奥さん」
 フロイドは、わざとビアトリスを『奥さん』と呼んだ。
 ビアトリス・フォレスト。この界隈では評判の美人である。
 本人は、「カリフォルニアには私のような女などごろごろしている」と言っていたが、フロイドにはそうは思えない。
 ビアトリスは、フロイドが会ってきた女の中では、一番の美女だ。
 背も高いし、美しい。多分、気も強い。なんたって、フロイド・アダムス様を振った女だ。理想の女だった。
 ジョゼもいい女だが――とフロイドは思った。やはりビアトリスの美しさも格別だ。
 ジョゼも、ある一点を除けば、理想的なのだが――彼女は小柄なのだ。だが、一緒に寝た時はよかった。ベッドの中では、身長など関係ない。
 初めてジョゼと寝たのが、ビアトリスとの恋愛中だったのだから、我ながら呆れてしまうフロイドだったが。
 ビアトリスは、ソファに腰をかけたまま、陽光を受けて微笑んでいた。幸せいっぱいの妊婦、と言ったところか。
 今は、子供の靴下を編んでいるらしい。フロイドの姿を見ると、編み物の手を休めた。
「お久しぶりね、フロイド」
「ああ、奥さん」
 やはりハーディは幸運な男だ。この女神のような女をものにできたのだから。
「赤ん坊は元気か?」
「ええ。順調よ」
 ビアトリスは慈愛に満ちた笑みを湛えた。
「あんたそっくりの子供が生まれればいいな」
「そう?」
「女の子だとなおいい。俺は女が好きでね。男は父親でも嫌いだったが」
 ビアトリスはふふっと笑った。
「あなたのお父様は苦労したでしょうね」
「ああ。今でこそわかる」
「でも、ジェームスのことは好きでしょ?」
「――まぁ、嫌いではないな」
「素直に好きって言えばいいのに。喜ぶわよ。ジェームス」
「野郎を喜ばせる趣味はない」
 フロイドとジェームスは、互いに吹き出した。
「ああ。あなたがここに来た瞬間、どんな顔をすればいいのかと思ったけど――そんな不安いっぺんに吹き飛んだわ」
「――俺もだ」
「男の子だったら、ジェームスみたいな息子が欲しいの。でも、女の子でもめいっぱい愛するつもりよ」
「――ハーディは、今から親馬鹿だったぜ。娘だったら、手を出せば一発は殴られるな、娘を持つ男親ほど怖いもんはねぇ」
「腹、撫でていいか?」
「――いいわよ。まだあまり目立たないけど」
 ビアトリスがそう答えるのは、自分を信用してのことだろう。フロイドは、隣に座ると、ビアトリスのお腹を撫でさすった。
「――元気に育てよ」
「フロイド……」
 ビアトリスが、透明な哀しみ、という言葉があれば、それにぴったりな表情を浮かべていた。
「やっぱり、あなたは優しいのね」
「俺は、女には優しいんだ。でもあんたの子供なら、男でも可愛がってやってもいい」
「……ありがとう」
「丈夫な子を産めよ。俺も――祝福してやるから」
「なんでそんなに優しいの? フロイド」
「――余裕があるから、かな。今はもう、恋人もいるしな」
「恋人? あなたに?」
「そう。ジョゼ・ルージュメイアンだ」
 黒髪にミステリアスな雰囲気のジョゼを思い浮かべて、フロイドは何故か優しい気持ちになった。
「おめでとう。ジョゼ……どうしてる?」
「変わらない――と言いたいところだが、いろいろあるみてぇだな。俺が浮気しようとしたらおかしくなったりもした」
「あなた……浮気したの?」
 ビアトリスは、今度は少々呆れ顔で尋ねた。
「ああ。付き合い出してから一度だけ。未遂に終わったけどな。大きな喧嘩して――でも、今はもう元通りだぜ」
「ジョゼも、大変なプレイボーイに恋してしまったわね」
「ジェームスには敵わないがな」
「ええ。彼こそ、天然のプレイボーイね」
 くすくす笑うビアトリスは、光の妖精のように輝いていた。彼女の長い金髪がきらきらと煌めいていた。
「今日は、改めて俺からお別れを言いに来たんだ」
「フロイド……」
「このままいると変な気になってしまうとも限らない。だから――しばらくは会わないことにする。もしどこかで見かけても、俺が他人行儀であったとしても――許してくれよ。俺はまだ、あんたに未練がある」
「それは――ジョゼのこともあるから?」
「あいつは好きだ」
 フロイドは即座に言った。
「だが、まだあんたのことも好きなんだ。だから、会うのは正直辛かった。――今でもな」
 だが、フロイドはにっと笑った。
「あんたの子供が生まれたら――きっと俺のあんたへの恋心も薄れる。自分自身に決着もつけられるだろう。それまでは――さよならだ」
「ええ……」
「ハーディによろしくな」
 フロイドは立ち上がる。
「じゃあな。奥さん」
 フロイドは部屋を出た。鼻の奥ががつんとなったのは、気のせいだろう。
(これでいい。俺も――再出発だ)
 ジョゼに会おう――慰めが欲しいわけではないけれど。フロイドは両手をポケットに入れると、大きく息を吐き、俯き加減で階段を降りていった。

「あんたとは決着がつけられなかったのが心残りだな」
 帰り際に、フロイドはハーディに言った。
「じゃあ、ここでフェンシングでもやるか?」
「いいや。俺はどうもフェンシングは不得手でね。チャカでドンパチの方が性に合ってる。――警部だからな」
「そ……そうなのか」
 ハーディは冷や汗をかいたようだった。フロイドはそんなハーディを見上げた。
「家族を大切にするんだな。――俺の言う台詞じゃねぇが」
「……フロイド。僕の妻のことがなければ……あんたとは気のおけない友達になれたような気がする」
「そうかもな」
 フロイドはハーディに手を差し出した。二人は握手を交わす。
 ハーディについてきたアンナとも、フロイドは手を握った。
「それじゃ、ハーディ、アンナ」
「またいつでも来てくださいね」
 アンナは温和な笑みを浮かべて見送った。
 フロイドは空を仰いだ。吹っきれない想いは確かにまだある。だが、それはやがて消えて行くだろう。
 かちり、とライターで煙草に火をつけ、景気良く煙を吐き出す。旨い。どこか晴れ晴れとした気分になった。
 ――この日を待ってた。

後書き
あの後、ビアトリスとフロイドはどうなったのかな、と気になって書いたのが、この作品です。
フロイドもっと出てきてほしいな。原作は、今はジェームスの過去話みたいだけど。
この日を待ってた、というのは、『ある夏の日』からの引用です。
2010.10.3

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