ほんの筆すさび

 ジェームス・ブライアンに関する伝記の大きな山が終わったので、ここで少し、軽い話をしようか。
 そう――わたしのことでも話そう。
 わたしはジョイ・ウィルコックスと呼ばれている。だが、この世で呼ばれる言葉には、何の意味もないのだ。
 わたしの家庭は複雑で、父母が死んだ後、わたしはウィルコックス家に引き取られた。
 わたしは兄を慕ったが、兄はそれほどでもなかったらしく、お義理程度にクリスマスカードを送って寄越す程度だった。
 だから、わたしは兄はきっと無口な人なんだ、と小さい頃は思っていた。実際は無口どころではなかったのであるが。
 それに、わたしのことも人並に心配してくれていたらしい。でも、どこかずれてる。
 わたしは小さな頃から書くことに取り憑かれていたから、兄の筆不精が不満だった。
 この世はこんなに喜びに満ちているのに、兄はどうしてそのことを書いて送って寄越さないのかしら?
 わたしはそれが不満だった。
 わたしの名前はジョイ。喜び、という意味だ。赤ん坊の時、口元が笑っているように見えたからだそうである。
 みんなが「ジョイ、ジョイ」と呼ぶので、とうとうそれが名前になってしまった。
 わたしは明るい面もあるが、暗い面も当然持ち合わせている。シンが言っていた。
「アンタ、ずいぶん両極端だな――さすがカーターの妹だ」――と。
 シン・ギャラガー、あなたにだけは言われたくない。
 ついでに言うと、シンは私達のはとこである。しかし彼は血の繋がりを呪いたくなるほど、わたし達に多大な迷惑をかけ続けている。
 家族には恵まれなかったわたしだが、幸せだった時もある。これはもう書いただろう。
 ジェームス・ブライアン。わたしの兄に代わって、手紙のやり取りをしていた。それがわたし達の出会いだった。
 そして――顔を見る前から、わたしはジェームスと恋に落ちていた。
 ジェームスがどんな顔をしていても構わない。怪物のようであっても構わない。大人になったら結婚する。そう思いつめていた。これを思春期の感傷と笑い飛ばす者はいはすまい。
 実際は――幸運なことに――ジェームスは美丈夫であった。だが、わたしは彼がシン・ギャラガーのような太っちょたぬきでも好きになっていたであろう。
 わたしの幸せは何年か続いた。恋人としての時間、短かった夫婦生活――子供も産まれた。
 だが、ジェームスはもうこの世にはいない。
 娘のビダ―・ヴォイド・ネガットについては、生死さえはっきりしない。
 義理の息子エティアス・サロ二―は、ビダ―が生きていることを信じている。だから、もういい年になるのに結婚もしない。
 わたしは幸せだったのだろうか。
 答えはイエスだ。
 生まれたおかげでわたしはジェームス・ブライアンという稀有な男を知った。数奇な運命を味わった。アフリカで暮らしたことも忘れられない。
 できるなら、ずっといたかったが、それは状況が許さなかった。それに、わたしはこれでいいとも思っている。
 全ては運命の黄金律に従って生きている。ジェームス・ブライアンとて例外ではない。
 ジェームスは、自分の運命を知っていた。誰にも明かさなかったが。いや、ただ一度だけ――。
「ジョイ。いつでも別れる覚悟だけはしておけ」
 と言っていた。
 わたしもそのつもりでいたのだが、いざ彼に去られると、自分の人生がいかにちっぽけなものか思い知らされた。
 彼は巨大な惑星だ。その周りにある衛星をみんな惹きつけてしまう――フロイドが言っていた言葉だが。
 彼に印税寄越せと迫られたら、有名税でしょ、と切り返してやろう。
 ……ちょっと気分が落ち着いた。このところ、体のバイオリズムが低下していて辛かったのだ。
 でも、わたしはまだ死ぬわけにはいかない。
 ジェームス・ブライアン。
 彼はわたしの自殺を許さないであろう。
「生きろ」――そう言うであろう。
 彼だって、生死の境を潜って来た男なのだ。わたしよりもずっと。わたしの兄達よりももっと。
 ジェームスは生きている人間なら通るかもしれない災難や悦びを全て知っているのだ。彼は近親相姦から生まれてきた。
 彼の話は、一部ではタブーになっている。わたし達も何度か攻撃された――フリーメイソンやKKKばかりではない。――クリスチャンという輩どもからもだ。
 彼の生はみこころにかなっていないというのだ。
 そしたら、何故彼らの信ずる神は、ジェームスに生を与えたのだろう。彼らの言っていることは矛盾している。
 ジェームスは悪魔だ。そう言う人もいる。わたしは、彼以上に温和で優しく強い人を知らない。
 彼が悪魔だったら、天使はいかに残忍な存在であるのだろう。
 ジェームスは、誰よりも真実に近かった。わたしも、彼に選ばれたことによって、彼の世界を垣間見た。
 今は、それをPCに写すだけである。わたしは神の、いや、ジェームスのタイプライターだ。頭に浮かんだ文字をそのまま書きとめている。
 時には、しばし待つ。だが、わたしには多くの時間は残されていない。わたしの健康状態はすぐれたものとはお世辞にも言えないからだ。
 ジェームスは、わたしに留まる時間を許してはいない。それでいい。ジェームスのことを書いている時でだけ、わたしはわたしでいられる。わたしは正気でいられる。
 これは、わたしにとってのよすが、錨なのだ。
 言葉が浮かんで浮かんで溜まらない。小説の神とやらが降りてきたのだろう。いや、これは本当の話だ。
 わたしは、才能が枯渇するという恩恵にあずかったことは一度もない。
 煮えたぎる怒りが、かぐわしい悦びが、家族の存在が、わたしに書くことを迫って来る。
 わけてもジェームスだ。
 ジェームス。わたしの夫。わたしに悦びを与えてくれた存在。
 彼と生のエッセンスを飲み干したなら、もう後戻りはできない。彼に惹かれてやまぬ魂は今も生まれている。
「感動しました! こんな男性が本当にいるんですね!」
 と、泣きながら握手を求めて来る女性。
「この話は本当かね。もし本当だとすると――私は神の手というものを信じたくなってくる」
 と言った若い聖職者(わたしはクリスチャンを攻撃したが、全てのクリスチャンが悪いと言っているわけではないのだ。義理の息子エティアスもクリスチャンだし)。
「こんなものはほらだよ。ジョイ・ウィルコックスは嘘をついているだけに違いないのさ」
 とへらへらと笑っている中年男性。それは、攻撃されるよりは遥かにマシというものであるが。
 クリスチャンではない私だが――
 神かけて誓う。これは嘘ではないということを。全部真実である。
 ジェームスは、わたし達の心に住んでいるのだ。だから、或る者は執着し、或る者は反発する。
 ジェームス・ブライアン・オ―ガス――わたしの兄の息子は、ジェームスに反発する方を選んだ。
 ジェームス……わたしの兄カーター・オ―ガスの心にあのジェームス・ブライアン――死したジェームスが生きているのを見て、父とジェームス両方に腹を立てている。
 どちらのジェームスも、話し合えば即わかり合って意気投合したかもしれないが、残念ながら私の夫の方のジェームス・ブライアンは、今は手の届くところにいない。
 強い意志。凛とした眼差し。ジェームス・ブライアン・オ―ガスも只者ではない。必ずや自分の使命を果たすであろう。
 双子の兄のレイフは大人しい性格だったが。いや、彼も芯に強いものを秘めている。
 そして、カーター・オ―ガス。この人はわたしの兄だが、謎が多い。
 本気でジェームスに惚れていたふしもあるらしいのだ。ジェームスの親友、アンディよりももっと。
 しかし、彼は結婚前は性的にスノッブであったらしい。彼のおかげで顔を赤らめざるを得ない場面が何度あったことか。
 ジャネットは、よくこんな兄と結婚してくれたものだ。
 ジャネットは年老いたカーターを支え続けている。その持前の明るさと天然さによって。
 カーターとわたしは年が離れているし、そもそも会話が成立しないのだ。カーターが温厚な紳士で通っているらしいこと、これもわたしには謎だ。
 アンジェラにそのことを話したら、彼女は深く深く同意してくれた。
「わたしもあの男が怖かったことがあるのよ。でも――悪い人ではない……と思うわ」
 わたしも、わたし自身の為に彼が悪人でないことを信じる。
 カーターとジェームスは深いところで繋がっていた。わたしとよりも。
 ジェームスは、
「カーターは俺のボスだからな」
 とお茶を濁していたが(彼にだってそんな時はあるのだ)、それにしてはカーターの言うことを聞かない時が多かった気がする。
 もうじきクリスマスだ。ロサンゼルスもかなり冷え込んで来た。雪は降らないが。
 コネチカットの雪が素晴らしいのは、もっぱらクリスマスカードの中だけである――ロバート・A・ハインライン『夏への扉』に出てきた言葉だ。うろ覚えで失礼するが。
 わたしも同感である。しかし、ジェームスが傍にいれば、嫌ったらしい雪でも好きになれたかもしれない。
 わたしはもう、夏への扉は探さない。夏への扉は、彼と共にあるのだ。ジェームス・エリ―・ブライアン。いえ、マイケル・ヴォイド・ネガット。
 アンディが師事していたハ―ヴ・ハスキンスは、アーサー・ネガットの姉でジェームスの母のイライザ・ネガットの数少ない友人である。ジェームスは、彼が父親だったら良かったと言っていた。
 ジェームスはハ―ヴが好きだった。だが、真相に対する疑問は既に少年時代からあったのだろう。薄々気付いていたかもしれない。ジェームスが天才だからだ。
 アーサーはイライザを犯した。アーサーはジェームスを赦そうとはしなかった。生きていくことを赦そうとはしなかった。
 だが、彼はことごとくアーサーの罠を出し抜いた。ジェームスはアーサーを忘れた。忘れたように見えた。
 アーサーの目には、愛への鍵は不必要なものに映っていたのだ。彼の目はイライザしか映していなかった。そして、皮肉なことにジェームス――マイケルは母親似だったのだ。
 日に日にイライザにそっくりになっていく息子をアーサーはどのような目で見つめていたのであろうか。――犯すことができなければ、殺すしかなかった。彼はそれを実行した。
 だが、マイケルは生きていた。生きて、エリ―のファミリーに入って、ジェームス・エリ―・ブライアンという新しい名前を授けられた。マイケルは一度死んだのだった。
 そんな彼が、どうしてカーターの家に入ることができたのか。新しい章ではこれを書いてみる予定だ。また長くなるかもしれない。
 わたしももう年だ。PCの前に座っているのが辛くなる時もある。しかし、昔のように筆記することはもっとできない。PCの便利さに慣れてしまっているのだ。
 さぁ、今日はもうこの辺で筆を置こう――いや、キーボードを打つ手を止めよう。軽い話、といった割には、思いの他長くなってしまった。それに――重くなってしまった。まぁいい。これはほんの筆すさび。どこかに発表するわけではないのだから。するかもしれないけれど。

2011.11.10

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