愛しているわ
その日、イライザ・ネガットは不思議な昂ぶりを感じていた。
何かいいいことが起きそうなふわふわした気分。彼女にしては珍しい気分であった。
人生の転換期がやってきそうなそんな予感――彼女は微弱ながらも予知能力を持っていた。
アーサー・ネガットが自分の部屋にやってきた。アーサーはイライザの弟である。
しかめ面をして、緊迫した空気を纏っていた。
「あら、アーサー……どうしたの?」
ベッドから身を起こしたイライザにアーサーの腕が伸びた。
「――好きだ、姉さん」
かっかっかっ。靴音が病院の廊下に響く。
イライザの友人で画家のハーヴ・ハスキンスだ。
「イライザ……」
弟に蹂躙されたイライザは死にかけていた。もちろん、ハーヴはそんなことを知らない。
イライザは美しい女性であった。ハーヴは彼女をモデルに絵を描いたこともある。
虫の息のイライザがハーヴの方を見た。そして、にっこり笑った。
「誰が、こんなことを……」
イライザは妊娠していた。男の子を産んで、間もなく死亡した。マイケル・V・ネガット――後のジェームス・ブライアンである。
マイケルに殺される――。
アーサーはいつしかそんな妄想に憑りつかれていた。
マイケルは天才児だった。サウスワース研究所はしばらくの間彼の遊び場だった。そこで、ヒース・ワイエスとも出会う。
しかし、マイケルは見る限り普通の子であった。言葉の端々に知性のきらめきを感じる以外は。
アーサーは、マイケルの世話をパデュラ一家に任せた。マリア・パデュラは、マイケルの乳母であった。マイケルはスペイン語を話して育った。
パデュラ夫妻には、四歳になる男の子イライがいた。この夫妻にはウォルトという息子もいたが、亡くなってしまっていた。ウォルトが亡くなった後、イライが生まれた。
マイケルは早熟だった。何でもできた。人望も厚かった。
マイケルが二歳の時、アーサーは死ぬかもしれない目に合った。
「おまえが気付かなかったら、私は閉じ込められるところだったんだぞ!」
坊ちゃまはボタンが好きでいじっていた。マヌエルはそう弁護した。
だが――普通の赤ん坊とは訳が違う。アーサーはそう思っていた。
マイケルは顔立ちも整っていた。アーサーの姉、イライザを彷彿とさせるように。
アーサーの罪の結果、生まれてきた子だった。
イライザは自分の受けた暴行の犯人について口を割らなかった。アーサーを糾弾もしなかった。ただ、マイケルを愛した。
アーサーは後悔する。マイケルが大きくなるにつれてそれは大きくなる。――イライザは死んでしまった。代わりにマイケルが彼を罰するのだ。
マイケルはハーヴが父親だったら良かったと思った。ハーヴは優しかった。イライザのことが好きであった。マイケル――いや、ジェームスはハーヴを慕っていた。
「ハーヴ、俺、アンタが好きだよ。アンタが父親だったら良かったのに」
「――そうだな」
ハーヴはジェームスを抱き締めた。
イライザは、死ぬ直前、美しいビジョンを見た。
それは、マイケル――後のジェームスが見る景色だったのかもしれない。
イライザは懸命に生きた。マイケルを全身全霊で愛した。自分と弟の罪の子を――。
私は誰をも愛さなかった。それが私の罪。
イライザはそう考えていた。
愛しているわ、マイケル――。
そうも考えていた。
美しいものを見た。それは、この子が将来見る光景なのだろう……。
イライザは息子に夢を託し、そして逝った――。
例えば、ここに誰をも愛さない人がいる。
愛さなかったのはイライザの罪。
アーサーのことだって、本当は気付いていた。彼が自分に熱い視線を投げかけるのを――。
自分の姉に恋していることを。
そして、ある日凶行に及んだ。
けれど、イライザは責めなかった。手段はどうであれ、アーサーは自分を愛していたのだ。そして、マイケルが生まれた。
マイケルには愛を学んで欲しかった。
マリア・パデュラはそれにうってつけの人材だった。イライザも天国で喜んだに違いない。マリアはマイケルの母――聖母マリアだ。
マイケルはいずれ出生の秘密を知ることになるかもしれない。だが、それまでは――普通の子として育って欲しかった。
まぁ、普通にしては何でも出来過ぎたが――。
だから、ワイエスの嫉妬を買うことになった。
でも、マヌエルはマイケルを普通の子だと言い、そのように扱ってきた。
イライザは今はただ、マイケルの幸せを願う。
彼は死よりも遠く遥かなところから生まれてきたのだから――。
マイケル――いや、ジェームスは数々の人を幸福にしてきた。
けれど――実の父だけは愛することができなかった。マイケルは子供の頃から、自分の父親はアーサーだと薄々は気付いていた。
アーサーもマイケルを殺そうとした。
アーサーが自分を殺そうとしているのがわかった時、マイケルはショックだった。どうせ、そんな男だとわかりきってはいたのだが。
それでも――それまではアーサーのことが好きだった。好きになろうとしていた。実の父親だったのだから。
けれど、もうジェームス・ブライアンであるマイケルは、アーサーを殺そうとしない。憎んでもいない。憎しみは憎しみしか生まない。
少なくとも、自分はイライザから愛されて生まれてきたのだ――望まれて生まれてきたのだ。
だから――家族を守りたかった。マリアが自分を守ろうとしたように。
愛している、愛している、愛している――。
さざ波のようなこの想い。半身であるジョゼも感じているであろう。
長生きできないのはわかっている。ジェームスは罪の中から生まれてきた。少なくとも、世間の人々はそう非難した。
――アーサーも自分も、そう変わっているわけではない。マイケルはそう思っていた。
だが、イライザの言葉が心に甦る。
愛しているわ、マイケル。
俺も――愛している。イライザ。
一度、お母さんと呼んでみたかった。母親代わりにはマリアがいたが。
マリアの愛のおかげで、マイケルは幸せに暮らすことができた。イライザに感謝することができた。
愛しているわ。マイケル。
その声が蘇って来る度、俺もだよ。イライザ、と返事をする。イライザに聞こえているかどうかわからないが。
ハーヴの話を聞いて、イライザへの思慕の念が強くなる。
マイケル、いや、ジェームスは、イライザへの愛を世界への愛に変えることができた。
カーター達のおかげでもあると思う。
オーガス家には、訳ありの人物ばかりが集まってきた。
児童虐待を受けたカーター、母に先立たれ、ライオンとジャングルで暮らしていたアンディ――。
真っ当に愛を受けて育ったのはアンジェラだけである。
そして――ジェームスはジョイと結婚することができた。
子供がいたらめいっぱい可愛がろうと思う。その前に自分は死ぬかもしれないのだが。
ジェームスには自分の死のビジョンが見える。
死ぬことは怖くはない。イライザやマリアのところへ行けるのだから。
イライザ、俺は幸せだ。
生みの親と育ての親、両方に愛されて――。
愛は、還元しなくてはならない。この地球へも――。
愛は決して死なない。決して傷つかない。――マリアが言った言葉だ。
愛は、何度でも蘇る。
アーサーも、愛されたかったのかもしれない。イライザに。
彼は、いまわの際にマイケルを実の息子と認めた。彼なりの懺悔だったのかもしれない。それとも、息子に災いを運ぶ事実か――。今となってはわからない。
みんな、最後には死ぬ。マイケルは、いや、今はジェームスと名乗っている男は、人間を愛そうと心に決めた。
それはきっと、イライザの願いだったのかもしれない。私はあなたを愛したい、いえ、愛している、と。
後書き
ネタバレがあります。というか、殆どネタバレです。
アーサーも実は結構辛かったんじゃないかな……と思います。姉には無視され、実の息子からは「地獄に堕ちろ」とまで言われ――。まぁ、やっていることを見ればそう言われても仕方のない部分もあるかもしれませんが。
イライザのことにも言及してみました。原作では結構謎なお方ですが。
この小説は風魔の杏里さんに捧げます。
2015.8.23
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