tree

 たった二発の銃弾が人の運命を変えることがある――。

 サブロー・スズキは資料を抱えて走っていた。
「お呼びですか? 所長!」
 サブローはクリフ所長の元へ来た時、彼は肩で息をしていた。
「相変わらず騒がしい奴だ」
 所長のクリフはサブローをじろりと見た。
「用件はこれだ――この少年に見覚えはあるかね?」
「いいえ! 全く!」
「スチュアート・シンプソン夫妻及び、ニック・マクレガー殺害事件のたった一人の生存者だ。名前はリチャード・シンプソン」
「ああ、そういえば! でも何でうちに? 警察の管轄では?」
「この子は全緘黙症なんだよ」
「ああー……」
 サブローは納得した。ここは重度の障害者を収容する施設である。精神病棟の児童版といったらいいだろうか。
 1934年、コネチカット州で殺人事件が起きた。被害者はスチュアート・シンプソン、ナタリー・シンプソン、ニック・マクレガー。ニックが近所に強盗に押し入り、シンプソン夫妻を殺害した後、彼も何者かに殺害されたのだが、その下手人がわからない。
「今のままではな……さっぱりお手上げだよ」
 クリフは実際に手を挙げてみせた。
「俺にだってわかりませんよ。んで、その子の担当に俺を?」
「そうだが?」
「俺にも荷が勝ち過ぎますって」
「――君は日系人だったね」
「帰米二世です」
「私はWASPだ。これがどういうことを指しているかわかるかね?」
 軍靴の足音が響き、日本人及び日系人に対する風当たりが強くなってきた時代である。途端にサブローは怒りにかられた。
(きったねー!)
 黒髪に黒い目。これがサブローのコンプレックスだった。子供の時から思っていたことだ。金髪に青い目だったら、いじめられることもない、差別されることもない、と。――まぁ、それは誤解だったのであるが。
「わかりましたよ。所長。取り敢えず、リチャード少年に会ってきます」
「頼んだよ。私だってこんな手は使いたくなかったんだが」
 サブローはじろりと所長を見て、バタン、と戸を閉めた。

 リチャードを見た時、サブローは思わず口笛を吹きそうになった。これはこれは。
 リチャードはサブローのコンプレックスを刺激するような外見をしていた。金髪に青い目、可愛らしい顔立ち。両親からはさぞかし可愛がられて育っただろう。
 それなのにあんな事件に巻き込まれた。それとも、この少年が犯人かわからないけれど――。白人の運命にもいろいろあるらしいとサブローは悟った。神様は意外と公平らしい。
(あ……俺、リチャードの不運を喜んでる)
 酷いヤツだと思ったが、こればかりはどうしようもない。
「リチャードくん、俺はサブロー・スズキだ。俺はこれから毎日一時間ここにいるが、喋りたくなったらいつでも喋ってくれ。黙っていたかったらいつまでだって黙ってていいんだけど」
「…………」
「えーと……」
 サブローはソファに座ってリチャードと向かい合った。
 口も心も閉ざしてんのか。まぁ、そうだろうな。俺だって、あんな事件発生時に現場にいたらショックで口がきけなくなるかもしれない。
 シンプソン夫妻を殺したのは、ニックの二発の銃弾だった。ニックを殺したのはこの少年かもしれないが、気持ちはわかる。けれど、リチャードは人殺しをするような少年には見えない。
 サブローは何となくこの少年を応援してあげたくなった。
 サブローの親は日本人だ。石を家に投げ込まれたこともあるが、概ね幸せな家族だった。だからかもしれない。リチャードに罪悪感を覚えるのは。
 彼は一時間、ずっとリチャードと共に居続けた。何も言わずに。そして、彼はリチャードが好きになった。
(一時間、一緒にいただけなのに――)
 サブローは笑い出したくなった。けれど、心はずっとリチャードと共にあった。
「どうだったかね。スズキくん。リチャードは」
「いい子です。好きになりました」
「喋らない子だが、性格がわかるのかね?」
「わかります。――その、何となく、だけど。彼は両親に愛されて育ちましたね」
「ああ――そういうデータがある」
「俺、ニックを殺したのはリチャードではないと思います。俺だったら、ニックの野郎、殺しても飽き足りないけど」
「そうだな」
 クリフとサブローはふっと微笑みを交わした。
「それにしても、リチャードと君が意気投合うするとはねぇ……リチャードの方はまだわからないが。君はやっぱり稀有な才能の持ち主だよ」
「若い頃にユング心理学をかじっただけです」
「うん。君を抜擢してよかった。明日も頼むよ」
「わかりました」
 そして、次の日も、その次の日も、サブローはリチャードのテリトリーに居続けた。ただ、居続けた。
(楽しいかな――?)
 リチャードは無表情だ。ケリーがお茶を持ってきた。
「ああ、ここに置いといてくれ」
 サブローは喉が渇いていた。お茶を一口飲むと、リチャードがじろりと睨んだ。
「あ……その……ただお茶を飲んだだけだよ」
(意外に嫉妬深いんだな)
 自分以外の存在に心を移すのは許さない。リチャードの怒りの炎が見えるようであった。
(お茶一杯もろくに飲めない……)
 一瞬、所長を恨みたくなった。だが、またすぐに心はリチャードの元に戻っていった。
(俺が彼だったら――)
 リチャードがニックを刺してもその気持ちがわかるような気がする。というか、よくやった!と思うことだろう。
 包丁の指紋は綺麗に拭き取られていた――これが、サブローが休み時間に調べたデータの一部だった。
 リチャードがそれをやったのか? もしかして彼は誰かをかばっているのか? サブローは不意にそう思った。
(まぁ、それは俺にとってそれほど重要ではない――)
 サブローはどうしたらリチャードと友達になれるか考えていた。
 リチャードの元へ初めて通ってから一ヶ月が過ぎた。リチャードはソファから降りてテーブルの上で手を滑らせ始めた。
(おっ)
 フィギュアスケートのように滑る少年の両手にサブローは釘づけになった。一時間が過ぎ、ケリーがやって来ても、
(後で後で)
 と、目で言って追い返してしまった。八時間が過ぎ、ようやくリチャードの長い儀式は終った。リチャードはこてん、と眠ってしまった。
(リチャードは俺に心を預けてくれた――)
 不思議な感動がサブローの心を包んだ。その次の日は、リチャードのだんまりでカウンセリングは始まったけれど、サブローは慌てなかった。元々彼はリチャードに関しては慌てることがなかったが。
 サブローは、何となく伸び伸びしていた。そして、自分の心の秘密を喋った。
「俺はね、リチャード。日系人なんだ。これがどんなことかわかるかい? 君みたいな外見であったら良かったなと思ったよ。今まで誰にも言ったことないけど」
「…………」
 しばしの沈黙の後、リチャードが口を開いた。サブローは確かに聞いた。『tree』――と。
 それが、リチャードの心の秘密だったのだろう。サブローはにっこり笑った。
「ありがとう。じゃあ、俺、もう時間だから行かなくちゃ」
 すると、リチャードがサブローの背中に抱き着いた。
「アル、アル、行っちゃやだ! 行っちゃやだ!」
 リチャードはサブローを誰かと混同している。しかし、サブローは嬉しかった。リチャードが口をきいてくれた。さっきもだけど。と、同時に、アル、という存在が憎くなった。近くを通った職員が驚いていた。
「リチャード、また来るよ」
 リチャードは案外簡単に離れた。しゃくり上げるリチャードの頭を撫でて、サブローは出て行った。

「栄転?」
「そうだ。君にはスイスのユング心理学の研究所に行ってもらう」
「じゃあ、最後にリチャードに会わせてください。俺は、彼と約束があるんです。俺、また来るって言ったんです」
「駄目だ」
 ――クリフ所長は頑として折れなかった。サブロー、君にはリチャードが話をするきっかけを作った功績がある。だから、栄転なのだと。今朝、リチャードは言ったナースに言ったそうである。「おはよう」――と。君にしがみついて泣いているリチャードを見たと言う証言もある。感情が表に出てきたのは喜ばしいことではないか。
 そうか。リチャード他の人とも喋ったか。サブローはほっとしたような残念なような複雑な気分を味わった。
 ごめんな、リチャード。――サブローはリチャードを裏切る自分を世界で一番卑怯者だと思った。
 リチャードは自分の声を殺し、アルバートのことを言わなかった。リチャードはアルバートを守ったのだ。それがリチャードの、友に対する守り方であり、また愛し方でもあった。

後書き
サブローと言う名は鈴木キサブローから拝借しました。
サブローはいろいろ翻弄されて大変だと思います。
戦争中は収容所にも入れられたのかなぁ……帰米二世だもんなぁ……。
2020.09.13

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