ロレンツォの黒歴史

「いいかい。バーンズ女史には絶対逆らっちゃダメだよ。怖い人なんだからね」
 版権代理人をしている友人がそう言っていた。
 バーンズねぇ……聞いたことのある名だけど……。
 その時、俺の頭の中にある記憶がよみがえった。
「やめて、ロレンツォ、やめて――!」
 ジャゴバーグは確か、クロエ・J・バーンズという名前だった。女の子特有の匂いは俺を昂らせた。――俺もまだ若かった。
「ロレンツォ――」
 ひと際高い叫び声を耳にした時、俺は思わず彼女から離れた。
 何てことしてしまったんだ、何てことを――!
「その……ごめん」
 俺は謝ったが、ジャゴバーグは頑として口を聞かなかった。脱がされた――いや、脱がされそうになった服を直して、部屋を出て行った。
 ――パタン。
 非情な扉の音だった。それ以来、俺とジャゴバーグは別れた。

 ――数年後。
 版権代理人を派遣する会社で俺はジャゴ……いや、クロエと再会した。クロエは大人の色香を纏う美人に成長していた。
 だが、俺だって少しは賢くなっている。酔った勢いで押し倒すなんてことは――しない。多分。
 多分、というのは、俺も男だからだ。それに、クロエの色香は俺を迷わせる。――クロエだけが悪いのじゃないけれど。
 綺麗になったな、クロエ。
 俺は心の中でそっと囁く。俺達の関係は数年前のあの日に終わっていた。
 それもこれも、クロエが女の子ばかりにちょっかい出すから――。
 だから、俺は嫉妬してあんなことを――。酒の勢いもあった。
 クロエ、俺は今でも――お前が好きだ。
 こんなこと、もう言えっこないんだけれど――。
 出来るならば戻りたい。あの日に――。
 だけど、それは無理だとわかっている。それぐらいには、大人になっている。例え、作品中にタイムトリップとか出ていたとしても。それじゃまるで都合の良いSFだ。クロエも辛い点をつけることだろう。
 ――もう、これからは彼女のことはクロエと呼ぶことにする。一人前になった彼女の意思を尊重して。あの時だって俺が自制していれば良かったんだ――。
「ロレンツォさん……?」
 カレン・ボールドウィンが俺の顔を覗きこむ。なかなか可愛い娘じゃないか。クロエの恋人じゃないと言ってたけど、どうだか。
 もし、そうなったところで、俺には関係ない。関係ないはずなのに、胸が痛い。
「クロエのこと、宜しく頼みたいんだけど……私、友人としてあの人が心配なの」
 俺も友人としてあの娘が心配だね。ついでにカレン。君もさ。可愛いから、君がクロエに操奪われないか、お兄さんは心配だよ。
 ――と、冗談を言ってる暇はなかった。俺には仕事が待っている。カレンの将来のライバルになるかもしれない、金の卵さ。
「クロエだったら大丈夫だよ。強いから」
「そうね」
 そして、カレンはぷっ、と吹き出した。
「あなたの方が、クロエのことよく知ってるんだったわね。幼馴染なんでしょ?」
「ああ……」
 けれど、あんなことがあった翌日、改めて謝りに行ったら、クロエのお母さんにけんもほろろに追い返されてしまった。
 カレンは――こんな話をしたらきっと怒るであろう。クロエに代わって。もう口もきいてくれないかもしれない。
 クロエだったら、
「アンタ、そんな後悔するつもりならやらなきゃいいのよ」
 と言いそうだ。でも、やってしまった。過ぎた時間はもう元には戻らない。
 クロエ――!
「ロレンツォさん! 信号赤よ!」
 カレンに腕を引かれた。
「もう……危なっかしいんだから。そういうとこ、クロエそっくり!」
 むー、そんなところだけ似ててもなぁ……俺はともかくクロエは腹を立てるぞきっと。
 でも――そうか。クロエはまだ危なっかしい少女のままなんだな。そう聞いて、安心してもいた。
「ロレンツォさんて、いい男よね」
「ん? そうかい?」
「クロエも何であなたを毛嫌いするのかしら」
「俺が悪いんだよ。全部」
「あら、そうかしら。――クロエもおっちょこちょいだし、男性恐怖症だから……」
「それは……多分俺が悪い」
「クロエに何かしたの?」
 カレンの声に険が混じる。仕方ない。言ってしまおう。
「実は高校の時、彼女を押し倒そうとしたんだ」
 ――ああ、カレンの親愛の表情が蔑みに変わるのが見えるようだ……。彼女の顔を見ていられない。けれど、……カレンは笑った。
「ほーんと、男ってどうしようもない生き物ね」
 ……は?
 笑われたら笑われたで、それはそれで傷つくんだけど――。
「私も満更おぼこって訳でもないのよ。――まぁ、実際に男の人に抱かれたことはないけれどね」
「カレンだったらモテそうだな」
「ありがとう。これでも昔はガチガチの文学少女だったのよ。それが変わったのは――きっと、周りのせいね。皆いい人だったけど。ねぇ、ロレンツォも一から始めてみない? クロエと」
「――マイナスからのスタートだな……」
「あら。ロレンツォって意外とペシミストなのね。昔は私もそうだったけど。いろいろあったから吹っ切れちゃったわ」
「吹っ切れたって……」
 この娘は一体どんな体験を積んできたと言うのだろう。知りたかったが、質問するのは控えた。カレンにもプライバシーがある。
 カレンは星を見上げた。
「ねぇ、ロレンツォ。空を見上げたら、ちょっとしたことなんてすぐに忘れると思わない?」
「――思うね」
「スモッグで星は見えないけれど――いつか必ず、綺麗な星空が現れるわ」
 カレン・ボールドウィンか……クロエが惹かれるのもわかる気がする。人間としても、女としても――。
「ロレンツォ、あなたがクロエと上手く行くことを祈っているわね」
「――ああ、そうしてくれ」
 きっと無駄だと思うけれど。
 ――でも、カレンの好意を無駄にしたくはなかった。俺が女だったら無二の親友になってただろうな。ああ、そうか。カレンはクロエの親友なんだ。そこには一切のエロスの欠片もない。
 いや、あるのかもしれないけれど、肉体関係には結びつかないだろう。男同士にだって、精神的繋がりはあるんだし。
「ごめんな。カレン。俺、君のこと誤解していた」
 俺がそう言うと、カレンはくすっと笑った。
「何をどう誤解したのか、今は訊かないでおくわ」
「じゃあ、今後訊くことがあるかもしれないってことかい?」
「作品に反映させたい時にはね」
 ああ、この娘は女である前に作家なのだ。勿論、女らしい可愛さは持ち合わせてはいるけれど。仕事に生きるクロエとはさぞかしウマが合っただろう。クロエも女性らしい女性だから。
「でも、女の子は大事にしなきゃダメよ。そうしないとめっ、ですからね」
「肝に銘じておきます」
 そして、俺達はクスクスと笑った。傍からは仲の良いカップルに見えたことだろう。俺は光栄だが、クロエがいるしなぁ……。
 今でも好きなんだ。クロエ……いや、ジャゴバーグ。
 朗らかだった君が目に浮かぶよ。君は皆のアイドルだったね。
 少し引きこもっていた時期もあったけど、クロエは自分から殻を破ったんだ。そして、あんな立派なレディになったんだ。
 ――ありがとう。
 俺は、あの世にいるかもしれない俺達を見守っている何者かに礼を述べた。
 俺が出来なかったことをアンタが代わりにやってくれたんだね。
 それにカレン。君にも感謝だ。君のおかげで、君が許してくれたおかげで、俺は立ち直りかけることが出来そうだ。最終的には、クロエに許してもらうのが一番嬉しいんだけど。
「あ、星が見えるわ」
 カレンの言葉に俺も釣られて空を見上げる。なるほど。スモッグの中でもひと際輝く星がある。
「この星って、クロエに似てない? 自分で輝いているところ!」
 それは君もだよ――俺は苦笑しながら心の中で言った。きっと、クロエとカレン、この二人はいいコンビとして映画界を騒然とさせるだろうな……その日が楽しみだと、俺は思った。

後書き
『クロエの黒歴史』のスピンオフです。
版権代理人の派遣会社というのが本当にあるのかどうかは……すみません。わかりません。
カレンはロレンツォを嫌いではないみたいです。
2020.02.09

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