クロエの黒歴史

「クロエ、君に部下が出来るよ」
『君に弟が出来るよ』――そんな口調で上司のチャックが言った。彼はユニークもわかるし外見もいいので、クロエの好みではあった。
(シャネルの五番――吹き付けてきて良かったわ)
 クロエ・J・バーンズはそんなことを思った。
「おーい、ドゥランテ君、入ってくれ給え」
(――ドゥランテ?)
 どこかで聴いたことがある名前だと思った。もしかしたら、イタリア系なんだろうか。それにしても、ロレンツォと言う名前にはある忌まわしい記憶が……。
(ロレンツォ・ドゥランテ――)
 クロエは頭の中で、幼馴染――いや、腐れ縁の悪友のことを思い出していた。せっかく縁が切れたと思ったのに――でも、別のロレンツォかもしれない。
 青年が入って来た。白っぽい金髪をワックスで撫でつけている。だが――その顔には見覚えがあった。
「ロレンツォ……」
「ジャゴバーグ……」
 ――時計の針が数年前に戻った。彼らは同じ中学と高校だった。
(あたしの名前はジャゴバーグよ! 皆、そう呼んでね!)
 その頃、クラスでは自分勝手にミドルネームを作ることが流行っていた。クロエはジャゴバーグと名乗っていた。ミドルネームがJだし。――クロエは、自分でつけたミドルネームを気に入っていた。
(あ……黒歴史がよみがえって来た……)
「ダメだよ。ドゥランテ君。クロエはジャゴバーグと呼ばれるのが何より嫌いなんだから」
「え――?」
 チャックの言葉に、ロレンツォは目を見開いた。クロエはチャックの無邪気さを呪った。
「まさか――そんなはずはない!」
「事実よ」
 クロエが厳しい声で応じた。
「私のことはバーンズ、または、クロエでもいいわ」
「でも――」
「私の部下になると言うのなら、覚えておきなさい」
 クロエはかっかっと、高いヒールを鳴らしてロレンツォとチャックの前から去った。
「どうしたんだろうね。クロエ。いや、普段の彼女は冷静だよ。ただねぇ、少し、キレやすいところがあるというか――」
「あの……俺が悪いんだと思います」
 チャックとロレンツォの会話がクロエを追いかけて来た。

(ジャゴバーグ……)
 ロレンツォが自分を呼ぶ甘い声が思い出された。
「あー、最低ッ!」
 あの男がこれから自分の部下になるのだと思うと、運命や神といった摂理のようなものを呪いたくなった。
(もう、二度と会いたくないと思ってたのに――)
 ――電話が鳴った。
「もしもし?」
『あ――クロエ?』
「カレン!」
 ――急にクロエの声が明るくなった。
(こんなだから私はレズと言われたんだわ)
 ――けれど、もうそんなことは関係がない。
(男の良さを教えてあげるよ。――ジャゴバーグ)
 不意に頭の中に降って来たロレンツォの言葉を振り遣った。あの時まで――クロエは、ロレンツォにジャゴバーグと呼ばれることが一番好きだった――。
(教えてあげるって、まるで自分は初めてじゃないみたいに――破廉恥だわ)
 その後、クロエも沢山の経験を積んだ。しかし、あの時受けた恥と屈辱は、月日が経っても忘れられるものではない。
 別々の大学に行って、縁が切れたと思ったのに――。
『クロエ、クロエ――電話が遠いのかしら……』
「そ……そんなことないわよ」
『夕飯、どこか食べに行かない?』
「そうねぇ……」
 カレン・ボールドウィンは脚本家だ。『かつてのスターに花束を』でヒットを飛ばし、もう次回作に取り掛かっていると聞く。楽しみだ。早く彼女の専属になりたい。
(私はカレンに恋をしているのかしら――)
 自問自答してみたが、答えは『ノオ』であった。カレンに対する想いは、戦友に抱くそれと同じだ。
(私は――ロレンツォ・ドゥランテ。あの男には精神的にレイプされたのと同じだわ)
 初恋だったのに――。
 白っぽい金髪。透き通った青い瞳――美少年と呼ばれた彼は、背広の似合う立派な美男子に育っていた。
(やめて、やめて――)
 あの行為は幸い未遂に終わったが――。
 もう、あの頃のような無邪気な遊びからは卒業した。――卒業させられてしまった。それでも、ジャゴバーグと言う自分で作ったミドルネームを捨てられないのは、一種の未練かもしれない。
「どこがいいかしら」
『クロエの方が詳しいんじゃない?』
「じゃ、フィッシュパラダイスに行きましょ? その名の通り魚料理が美味しいのよ」
『うん。あそこなら知ってる。私が予約を入れておく。待ってるわ』
 クロエは電話の受話器を置いた。
 待ってる――か。自分を待ってくれている人が、私にもいるんだわ。
 そう思うと、心が満たされるような気がして来た。

 フィッシュパラダイスへは車で行くことにした。カレンの家を訪ねたが、もう出かけた後だった。待ち合わせの時間は六時だった。お店に向かっているのかも。――クロエはそう思い、再び車を走らせた。
 いい車だ。車は日本製だ。流石に、貿易黒字で金を溜め込んでいるだけある。
(車はブランドより実用性よ――)
 フィッシュパラダイスへはすぐに着いた。カレンが手を振った。
「クロエー。こっちこっちー」
 カレンの元気な姿を見たクロエは、自分の口元が綻ぶのを感じた。やはりカレンは好きだ。友達としての好きだが――。
(声が大きいわねぇ……)
 肩を竦めたクロエは、店員にコートを脱がせてもらった。――今日は寒い。
 クロエにとって、カレンは妹のような存在でもあるのだ。カレンが座る席に案内してもらった。
 そして――やがて入って来た客の顔を見て、クロエの表情は強張った。
(ロレンツォ……)
 ――彼は一人だった。彼は何の屈託もなく、
「やぁ」
 と、クロエに声をかけた。(無神経な人……)クロエはそう思った。
「あの人、ちょっといい男じゃない?」
 カレンが耳打ちする。クロエは舌打ちしたくなった。
「どこが」
「知り合い?」
「――私の部下よ」
「ジャゴバーグ」
「その名前で呼ばないでちょうだい。――張っ倒すわよ」
「ごめんごめん。今日、謝りに行きたいと思ってたんだ。で、電話をかけたら留守で――お気に入りのこの店で傷心を癒やそうと思ってたんだけど、会えて良かった」
「ふん……」
「あの……クロエの恋人ですか?」――カレンが訊く。
「そうだなぁ……そうだったらいいなぁ……」
 クロエがぶっと食前酒を吹き出した。
「ジャゴバーグ……いや、クロエ。君が本気に取るかどうか知らないけれど、俺はずっと君が好きだったんだよ。――あの時のことは、ごめん」
「懺悔? ――今更遅いわよ」
「俺は――許してもらえるのを待ってるから。あ、この店は俺がおごるよ」
「あなたに頼る必要はないわ。ちゃんとここのレストラン代くらい稼いでます」
「そうだってね。君は優秀なんだってね。おまけに美人でスタイルも抜群。憧れちゃうな」
 ――押し問答をして、割り勘で済ますのに三十分かかった。カレンは、「あの人、悪い人ではなさそうね」などとのんきなことを言っている。

後書き
スタ花に出て来る脇役、クロエ・J・バーンズのお話です。
ロレンツォは本当にクロエが好きだったみたいだけど……不器用な人ですね。でも、嫌いじゃないです。
『ジャゴバーグ』というミドルネームには、こんな秘密があったんですね。私も驚き!
2020.01.30

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