イーストウッド・カンパニー 3(後日譚)

「あっ」
 ジェシカが席を立った。アリーナが訊いた。
「どうしたの? ジェシカ」
「何でもない。予習続けてて」
「うん、わかった――」
 ジェシカが席を立った理由。それは、レナード・オルセンだった。誘拐されたのを警察に助けられた後、ジェシカはどうもレナードと顔を合わせられないでいた。
(あたし、あいつに『ありがとう』とちゃんと言ったかしら)
 言ってない気がする。この間はつい殴ってしまったが、レナードも助けてくれた立役者の一人だった。
(ちゃんとお礼言わなきゃいけないのに――)
 外は雨。ジェシカの心情を表しているようでもある。あれから、ジェシカはレナードと碌に口をきいていない。
(あいつが助けてくれたようなもんなのに――)
 後、レナードの恋人のトレバー・マッキンレーと――。彼らはゲイとはいえ、立派な男だった。
 トレバーには、父と二人でニューヨーク市警に行き、改めて礼を述べた。母の手作りのアップルパイを持って。
 でも、レナードにはまだ何も言ってない。
 これでいいのかな――。
 ジェシカは改めて考えた。元々仲が良かったわけじゃない。ケンカばかりしてた。なのに、ああ、なのに――。
 レナードは私を助けてくれた。
(レナード……)
 ジェシカは、心臓の鼓動に身を任せた。
 図書室でも行ってくるかな。
 ジェシカは目的地を定めた。どんよりとした空が大きな窓から見える。
 何読もうかな……。シェイクスピアでいっか。それとも、『失われた時を求めて』にチャレンジするか。
 ジェシカが本を読み耽っていると――。ドカッとレナードが隣の席に着いた。
(レナード!)
 ジェシカが本を机に置いたまま立ち上がる。レナードが腕を掴む。
「待てよ」
 低い声にどきんとした。
「もう少し、いろよ。――イヤか?」
 ジェシカは少し考えて、それから席に戻った。
「それ、面白いか?」
「まぁね。アンタに読みこなせるとは思わないけど」
 ああ、また憎まれ口を叩いてしまう。ジェシカは何故か自分の性質に対して後悔した。
「ま、いいけどよ――」
 雨、外はまだ、雨――。
「お前さぁ、オレのこと避けてねぇ」
「…………」
 無言の肯定。
「何故だ」
 どんな顔をしたらいいかわからないから――などと言ったら笑うだろうか。
「オレに借りを作ったようでイヤなのか?」
「ばっ! 何よ! 借りだなんて思ってないんだからね、あんなこと!」
 レナードはテログループの犯行を警察にタレこんだ。『カインの末裔』というチンケな輩らしい。本当はそれほど犯行には慣れていないらしかった。
 しかし、フランス訛りの男の名前が『アベル』と言うのには思わず笑ってしまった。苦笑い。
「アベルといえば、神に生贄を捧げて目を留められたお方なのに、そんな人物の名前の男がジェシカさんを攫ったとは――しかも、『カインの末裔』なんて! カインと言ったら、聖書の中でアベルを殺した彼の兄ではないですか!」
 龍一郎は憤慨していた。ジェシカにとっても、テログループの彼らの気持ちはさっぱりわからない。ただ、彼らにとって聖書には何らかのこだわりがあるのであろう。自分の組織に『カインの末裔』と名づけるのもこだわりのひとつであろう。
 しかし――助かったから良かったようなものの、一歩間違えればジェシカは天国へ行ってしまうところだったのだ。
 レナードには感謝だが、それとこれとは別だ。ジェシカは運が良かったのだ。
「あたしは――神様に護られたんだからね! アンタが助けようとしてくれたのはそりゃ有り難いけど!」
「ああ」
 レナードは微かに笑った。
「いつものお前が戻ってきたな」
「いつものあたしって――何なのよ」
「オレに突っかかってくるヤツ」
「アンタ、あたしをそんな風にしか見てなかったわけ?」
「ああ。貴重な喧嘩友達だ」
 貴重な……。
 心の底が暖かくなるのを感じた。まるで、凍てついた氷が解け去るように――。
「まだ言ってなかったわね。この間は――ありがと」
 言えた!
 お礼を言えたことで、ジェシカは相当ほっとした。もう、レナードの存在もプレッシャーではない。
 プレッシャー?
 そう、あの事件から、ジェシカは何とはなしにレナードに引け目を感じていた。自分だったら、相手を助けたりするだろうか。そう考えて。
 ――で、出た答えは……助けるであろう、と。
 ジェシカにとってもレナードは大事な友達だったのだ。
「い、いいんだぜ、礼なんて。ば、ばっかだなー。オレはただ、トレバーに連絡しただけで……」
「いい恋人を持ったわね」
 嫌味でなく、ジェシカは本当にそう思った。
「だろう? なぁ、トレバーはほんといいヤツなんだ」
 レナードは自慢げに言った。
「そうかもしれないわね」
 以前結婚していただけあって、女が嫌いというわけではなさそうだし――。レナードに恋をしている(多分)という点を除けば、ごくごく常識的な当たり前の人間であったのだろう。警察なんかに勤めているくらいだし。
 けれど――ジェシカは何となく面白くなかった。
(レナード、アンタ、トレバーと寝たの?)
 そう訊きたかったが、プライバシーに踏み込み過ぎだという思いが兆したので黙っていた。
「雨、やまねぇな」
 レナードが呟く。ジェシカは「そうね」と気怠く言った。
「でもなぁ、オレ、雨嫌いじゃねんだよ」
「あたしは晴れの方が好き」
「オレも晴れは好きだけどさー、雨も風情があってなかなかいいもんだぜ」
「雨なんてここではしょっちゅう降ってるじゃない」
「龍一郎が言ってたぜ。『日本の梅雨は、僕、嫌いではありません』――と。紫陽花は綺麗だし、かたつむりは可愛いし、とも言ってたっけな」
「フランス人はかたつむり食べるけどね」
「エスカルゴだろ。そのくらい知ってんぜ。食う気にはあんまなれないけどな」
「まぁ! 私の大好物よ!」
「龍一郎のヤツ、困るだろうなぁ。ジェシカがかたつむりを食用としか見做していないと知ったら」
「あら。その辺のかたつむりは食べないわよ」
 アハハハ、とジェシカとレナードは笑った。アリーナが呼びに来てくれた。
「ジェシカー。もうすぐ授業――あ、レナードと仲直りしたの?」
「ち……違うわよ! 仲直りというか、そういうのとはちょっと違って……」
「別に何てことない話してただけだよ、なぁ」
「ふぅん、まぁいいわ。ところでジェシカ、お昼食べた?」
「あ、忘れてた!」
 思い出した途端にお腹が鳴った。レナードが抱腹絶倒した。
「ま、一食くらい抜いてもどうってことないわ」
「いいから何か食って来いよ。授業中に腹が鳴ったら先生も対応に困るだろ?」
「ジェシカ……あたしもその方がいいと思う。たまには授業エスケープもいいんじゃない? あたしは出るけどねー」
「わかった。じゃ、後は宜しく」
「オレも飯まだだから付き合うぜ。傘持ってるか? 学食でなくたまには店で食べようぜ」
 えっ?! ジェシカはドキッとした。――レナード・オルセン。大切な喧嘩友達。
 けれど、ジェシカはこれからはレナードともっと仲良くなれそうな気がした。

後書き
ジェシカ誘拐事件解決の後の話です。
ジェシカとレナードも和解が出来て良かったね!
エスカルゴは、私も食べるのに勇気いりそう……。
2019.12.16

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