田園交響楽 9

 カレン、リック、レオの三人は、近所のレストランに腰を落ちつけた。料理の匂いが食欲を増進させる。いろいろな香辛料の匂い。
「ここも、酒が美味しいんだ」
 リックは――カレンに対してだろうか――説明する。
「ジン、あったっけ?」
「あるけど――あまり飲み過ぎるなよ」
「……わかってるよ」
 レオは注意するリックに対して唇を尖らせた。そうすると、奇妙に子供っぽくなる。レオはいくつなのだろう、とカレンは考えた。確か、リックとそう変わらない年齢のはず――。
「レオはおいくつなの?」
 好奇心にせかされて、カレンは尋ねた。
「ん。二十四」
「へぇー……」
 意外と年だわ、とカレンは思った。
「お母さんは俺を生んだから父さんに捨てられたんだ」
「レオ……それは違うといつも言っているだろう」
 リックの男らしい眉が顰められる。レオはそっぽを向いた。どうやら、リックが世話を焼いても、あまり有り難いとも嬉しいとも思っていないらしい。それが、カレンの心に小昏い満足を与える。
(私は嫌な女だわ)
 けれど、その嫌な女でいる自分も自分なのだと、彼女は肯定した。それどころか、そのことを面白がってもいるのに気付いた。
(ずっと、龍一郎だの、リョウだのと言った連中とばかり付き合って来たから――)
 龍一郎は牧師で、リョウはその息子だ。リチャードももう枯れているし、リョウもピュア過ぎてついていけないところがある。クリスチャンの持つ清廉さは、時にカレンを疲弊させる。――偏見かもしれないが。
 リックやレオは違う。彼らは、カレンの仲間だ。悪友と言ってもいいかもしれない。
(或いは、ソウルメイトか――)
 少なくとも、リックとレオは強い絆で繋がれていると思う。多分、昔のリチャードとアルバートみたいに。リチャードはアルバートを愛しているからこそ憎んでいるのだ。
 ギルバートにさらわれた時、とんでもないことになった、という思いと、幾分、はた迷惑だな、という思いと――そして。
 私はあの時、嬉しかったんだ――。
 何度否定しても、湧き上がるその思い。ギルバートみたいないい男が、自分を愛してくれている。それが女性しての矜持を取り戻してくれた。リョウには出来ないことだった。
 リョウもいい男だが、彼は母の幻影を追っている。マザコンと結婚する気は、カレンにはない。それに、リョウにはアリスがいる。
 まだ若いのだ。私は――。
 若くて美しいクロエよりまだ若い。それに――こんなに素敵な男性達に囲まれたのは初めてだった。学校のクラスメートはカレンを変わり者扱いして女とは見てくれなかった。
 まぁ、白い無地のお洒落とは言い難いブラウスにジーパンというのが普段のスタイルだったから、当然といえば当然だったかもしれないが。
 ――カレンは脚本さえ書ければ幸せだった。
 だから、こういう時、どうしたらいいのかわからない。ライバルが男だなんて、アブノーマルだろうか。
(でも、男同士の恋愛というのも増えているし――)
 カレンにだってクロエがいる。しかし、あくまで『お友達』だ。上司と部下の関係にも近いかもしれない。
 ――あ、そうだ。
「ねぇ、リック。こんなところで悪いんだけど――ギルバートさんのお見舞い行っていいかしら」
「ああ! 勿論だとも!」
 リックがガタッと立ち上がった。こちらを見ている客もいる。――美男美女揃いの三人を最初から注目している女の子達もいた。
 ――この店には生の音楽が鳴っている。オリエンタルな曲調だ。それはここの売りらしい。彼らは演奏を辞めない。恐らく、少しは気になったにしても。
「あ、すまない――ギルバートさんはカレンのことを気にしていたよ。俺は彼女に嫌われただろうかって――」
「ギルバートさんらしくなく弱気ね」
「ああいう男性は一度躓いたら案外脆いもんだよ。うちの父さんの方が強かだと思う。――皆、そう思ってはいないみたいだけど」
 カレンは頷いた。それは何となくわかる気がする。
 リチャードは年を召しても狡猾なところがある。俳優になる前は結婚詐欺師もしていたらしい。――不起訴にはなったが。
 でも、それがリチャードの魅力でもある。だから、カレンはリチャードに惹かれた。顔は似ていても、リックとは根本的に違う。
 それよりも、と、カレンは思った。
 リックとレオ。二人が感じさせるある関係は、真面目一方かと思われるリックに新たな魅力を付加させた。レオに惹かれるリックが、カレンは大好きだった。
 これって――私も異常なのかしら。
 かっと身ぬちが火照る。けれど――リックとレオはお似合いだと思った。ただ――。
(レオはどう思っているのかしら)
 カレンは、リックに注いでいた視線をレオにも向けた。その途端、レオが可愛らしく笑った。
(あ……)
 レオが可愛い。くらくらしそう。
 カレンはレオに受け入れられたことを知った。レオも好きだ――と、カレンは思った。けれど、それは恋ではない。
 リックにはどこか欠落しているところがある。それはレオもだけど。その二人が足りないところを補い合っている。それでいいではないか、とカレンは思った。
 料理が運ばれて来た。ニンニクと香辛料の、スペインの料理。
「嬉しい! スペインの料理って初めてなの!」
「それは良かった。ここには店主のお気に入りの酒や料理は大概揃っているんだ。韓国料理もお勧めだよ」
 リックが笑顔を見せる。だいぶくつろいできたらしい。身内にしか見せないような、あどけない笑顔。
(どちらも子供なのね――)
 カレンはそう結論づけた。リックもレオもカレンには子供に見えた。リックはこんなところでもリチャードに似ていた。リチャードも時々子供に見えたから――。
(男は皆子供だから――)
 クロエが言っていた。艶然と笑いながら。カレンはリョウのことを考えていた。リョウは本当に、たった今生まれた幼児のようで――と思いきや、大人な部分もあってカレンは時々びっくりさせられるのだが――。
(リョウは――本当に子供だから)
 それで、押し出しの良い社長が母に甘えるように求めて来た――というクロエの話も、カレンには納得出来た。
 しかし、カレンは恋愛を知らない。――生の感情を知らない。
 必要なのは、皆、本で習った。
 それもどうかと自分では思うけれど、そうなってしまったのだから仕方がない。やがてカレンは演劇に惹かれ始めた。
 演じるよりも裏方の方がいいわ。
 そう思って選んだのが脚本家という道だった。好奇心が旺盛で読書家。ラシーヌもジャン・ジロドウも学んだ。シェイクスピアは、それはもう小学生で全部読破したカレンは、いつしか、脚本ていいわ、と思うようになっていた。
 カレンは物語が好きだった。
 しかも、自分が関わって、しかも尚、自分を傷つけない物語を。こっぴどく批判されても、物語の世界にはまっていれば生きていけた。
 彼女は心理学とも出会っていた。リチャードがいなかったら、そちらを勉強したかもしれない。
 臨床心理学には興味なかったけれど、フロイトやユングには興味があった。とりわけ、ユングに傾倒した。
 料理を食し、音楽を聴きながら、カレンは自分の考えに浸っていた。リックもレオも邪魔しなかった。
 やがてカレンは、夢の世界から覚めたように、二人を見た。リックとレオが愛しい。全世界が愛しい。
 そして――ギルバートが愛しい。会いたい。それは、彼の気持ちに応える訳にはいかないけれど――。
 リチャードも愛しい。リョウも、アリスも、母も、龍一郎も、フェリアも――カレンはこの二十二年間で出会った人間のことを数え上げていた。いい出会いだと思ったことも、辛い別れを経験したことも。
(パパ――)
 カレンは、父ジョージのことを思い出していた。ジョージは笑い皺の似合う男だった。カレンが物心ついてから死ぬまで、同じような顔と体格だった。幾分白髪が増えてはいたけれど。
(死んでしまうなんて――)
 ジョージは心不全で亡くなった。心不全で亡くなる人間は多い。心不全でなくとも、心不全で亡くなったとされる人間も多い。
「食べないの?」
 カレンは物思いに浸っていた。リックがカレンを現実に引き戻した。
「ああ……いただくわ」
「スペイン料理は初めてなんだよね。ここのは美味しいよ」
 リックが柔らかい笑みをこぼした。カレンはスープに手を伸ばす。
「あら、美味しい」
「十月亭のとどっちが美味しいかな」
 ふふふ、と、リックが含み笑いをする。
「どっちも美味しいわ」
「――僕は『十月亭』の方がいいな」
「レオは『十月亭』を知っているの?」
 カレンが些か意外に思って訊いた。
「うん、ケヴィンが親代わりをしてくれた」
 レオがにこにこしながら打ち明けてくれた。ケヴィンが親代わりなんて――ケヴィンはリチャードとは別の意味で親には向かなさそうな人間だと思っていたのに……。
「あの時のケヴィン、面白かったよね。いつも冗談ばかり言ってさぁ――」
「ああ。いつも俺達の面倒を見てくれたな」
 カレンの目の前で、レオとリックの二人は幼子に逆戻りしていた。例え、外見はいい大人だったとしても。
 クロエの言うことは正しい。男は皆子供なのだ。そして、女も――。
 パパもよく遊んでくれた。――カレンはふと泣きそうになった。ジョージ・ボールドウィンはもうこの世にはいないのだ。レオの表情が一瞬翳った。それを見て、カレンは「あれっ?」と思う。そういえば、アルバートももういない。レオは父親のことを思い出したのではあるまいか。

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2021.12.17

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