利央にだけは…

 白い光が目を射抜く。
「朝だぞ、滝井……っていねぇのか」
 オレは休みを利用して実家に帰っている。弟の利央もいるはず。
 利央、ねぇ……。
 オレは、オレと殆ど似ていない弟の顔を思い浮かべる。弟はよく「可愛い」と言われる。男が可愛くて何になるんだ?
 対してオレのあだ名は見せかけゴリラ。その表現だけで……まぁ、察してくれ。
 とんとんと階段を降りる。朝餉の匂いがする。
「おはよう、呂佳」
 お袋が言う。弟を産んだだけあって美人だ。
 呂佳というのは、親父とお袋が新婚旅行で行ったポルトガルのロカ岬から取ったらしい。両親はそこがえらく気に入ったらしい。――まぁ、関係ねぇけど。
 親父が新聞を見ながらコーヒーを啜っている。お袋は――何だっけ? 今、エスニック料理に凝っているらしい。別に普通の和食で構わねぇんだけどな。利央も和食派だし。俺らいろんな人種の血を引いてるけど、日本で生まれ育ったもんな。やっぱりどこで育つかってのは大きいぜ。
 オレも黙ってりゃ体格のいい日本人で通るしな。滝井も純日本人だが、オレとタメ張る程逞しいし。
 利央は……一発でハーフかクォーターだってわかる。地毛が金髪だもんな。
「おはよう、兄ちゃん……」
 利央が眠い目を擦って居間に来た。
「利央。オレには何の挨拶もなしか?」
 ――と、親父。
「おはよう、父ちゃん……」
「よしよし、呂佳も利央もまぁ、座れ」
 親父とお袋はオレや利央を対等に扱う。オレが兄だからとか、利央の方が可愛いからとか言って差別しない。表面上オレがグレなかったのは、両親の育て方によるものである。
 ――表面上、とオレは言った。オレには心の休まる時はない。
 オレは今、美丞大狭山の野球部のコーチをしている。監督は滝井で、まだ学生だ。まぁ、オレも学生なんだがな……。滝井には借りがあるから、「コーチとして手伝ってくれ」と言われた時、頷いた。
 滝井はバカだけど、監督の資質はあると思う。オレは――まぁ、オレも慕われている方だと思う。
 利央も美丞に行きたがってたけど……無理だと言って諦めさせた。だって、利央は兄のオレの目から見てもアホだし。美丞には落ちるだろ。
 アホでも利央はいいヤツだ。オレと違って。利央には桐青で頑張って欲しい。
 桐青は中学からのエスカレーター式のキリスト教系の学校で、オレの母校でもある。
 美丞と桐青の対戦も楽しみにしていたんだが、桐青は西浦とか言う学校の新設野球部に負けてしまった。ちっ、桐青には人材いねぇのかよ。利央はまだ一年で正捕手にはなってねぇし。
 けど、来年は多分正捕手になるんだろうなぁ、利央のヤツ。一回戦で負けたらまたからかってやろ。あいつにも西浦にダチが出来たらしいから、そいつ使って西浦を落とし穴に落としてやろう。
 ――それでいいんだ。汚れ役はオレ一人。或いはオレと同類のヤツ。
 例えば、倉田岳史。
 もう野球はやめちまうようだけど、てめぇにオレの邪魔をする資格はねぇ。一旦オレの誘いに乗ったんだからな。直正だったら即監督に言っただろう。
 だから、オレは倉田を選んだ。
 悪いヤツじゃない。根性も買う。けれど、おめーじゃ直正に勝てない。正捕手は宮田直正だ。――普通ならな。
 けれど、オレは悪魔の囁きをした。正捕手になりたきゃ、オレの言う通りにしろ。
 倉田はよくやった。もう何人もの選手を潰して来た。――ラフプレーで。
 本当ならオレがやりたかったことだけど、オレはもう高校生じゃねぇしな。
 あ? 誰だ? 神聖な高校野球を汚しやがってと言ったヤツ。
 野球はなぁ、勝てばいいんだよ、勝てば。
 和己は何か勘づいているようだけどな。――それから利央。
 利央はアホだけど、その分勘がいいからな……。
 利央にはオレと同じ道は歩ませたくない。オレはまだ、あの時の負けを引きずっている。オレのせいで負けたんだからな。だから、高校野球をわざと汚して復讐している。殆ど八つ当たりだ。
 オレだって弟が憎いわけじゃねぇ。負けてもいいから、あいつにはオレとは違う選択をして欲しい。
 でも、あいつにはラフプレーを効果的に使う頭はない。オレのような根性の悪さもない。そもそも、利央は反則ぎりぎりのプレーはしねぇだろう。あいつは真っ直ぐなヤツなんだから。
 まぁ、しばらくは『負け犬』と呼んで遊んでやるか。
 利央の、西浦に通ってるダチは田島悠一郎と言う。
 美丞に欲しかったなぁ、と滝井は嘆いていた。一年の中心をやって欲しかったんだと。まぁ、田島が美丞に来たら、騒ぎが起きるだろうからそれはそれで面白かったかもな。
 利央は、自分を美丞に誘わなかったと言って、未だにオレや榛名を恨んでいる。オレは、今は武蔵野第一の選手になった榛名元希にも声をかけたのだ。
 ――けれど、オレは、利央には絶対に美丞に来て欲しくなかった。オレのやっていることを見抜いて欲しくなかった。
 オレはこんなヤツだけど、利央にとっては尊敬する兄貴らしい。なら、その役を演じてやろうじゃねぇか。利央はブラコンの気があるけどな。
 そして――オレもだ。
 オレも、利央にはいつまでも可愛い弟でいて欲しい。
 ……オレのやったことを利央が知ったら、オレは軽蔑されるだろうな。されてもいい。怪我したヤツが馬鹿なんだ。倉田には「ぎりぎりのプレイを」と言い渡してあるからな。
 ところがあいつ、仏心がついたのか、オレのこと、滝井に教えるって言い始めたんだよ。美丞の選手の中にも、おかしいな、と気づき始めたヤツらがいるらしい。
 倉田は全てを明らかにして、自分は野球を辞めると言ってきた。――今更かよ。
 そんな価値、おめーにゃねーよ。直正だったらまた考えを改めたかもしれねぇがな。
 それに、倉田やオレが仕組んだことが明らかになった日にゃ、美丞はどうなる。滝井はどうなる。――利央は、どうなる。
 オレが利央を美丞に誘わなかったのは、比較的被害を被らないようにと考えた訳だが……。
 オレのやっていることは、いつ明らかになるかしれない。その時は滝井も連帯責任だ。何たって、滝井がオレをコーチに誘ったんだからな。監督の滝井にも責任がある。知らなかったじゃ済まされない。
 それにしても、河合和己というのは怖い男だな。オレのやろうとしてること、――いや、オレと倉田がやろうとしていることをほぼ完璧に見抜いちまった。だからこそ、オレが邪魔者扱いしてもベンチから立ち去らなかったのだろう。
 流石、桐青で主将だっただけのことはある。一回戦で西浦に負けちまったがな。桐青は。
 ――桐青に利央を託して良かった。
 和己は野球辞めるかもしんねぇな。これがトラウマになって。オレと同じ立場だから、気持ちはわかる、だが――。
(オレとお前とじゃ、進む道が全然違う)
 和己は参考書まで買って、勉強に打ち込むつもりらしい。野球部なんて馬鹿ばっか、とオレは言ったけど、あいつはそう馬鹿じゃない。高学歴の大学も一般で受かるかもしれない。
 和己のことはオレには関係ない。倉田もオレと袂を分かつつもりならもう関係ない。
 けれど、利央は、利央にだけは……。
 このどろどろとした感情を持って欲しくねぇ。
 利央にはこんな感情を抱くような頭も持っていねぇかもしれんが、それでも。
 野球部が好きで、学校が好きで、死んだばあちゃんが好きで、アホだけど真っ直ぐな利央でいて欲しい。オレも利央まで巻き込むことはしたくない。
 なんてこった。オレの弱点は弟か。オレもヤキが回ったもんだぜ。
「兄ちゃん。手止まってる」
「あ……」
 利央に言われて、オレは自分が考え事してたことに気づいた。
「いいよ。呂佳は久しぶりの休みだからなぁ……ゆっくり食べなぁ」
 親父は優しい言葉をかけてにっこりと笑う。こんないい親父から、何でオレみたいなずる賢い狐が生まれて来たんだ? 狐と言うより、狸か熊だろ――と、滝井辺りは言うかもしれない。
 滝井は馬鹿だ。こんなオレのことを信じていてくれて。せっかく美丞のコーチ、頼んでくれたのにな。
 けれど、オレは野球が憎い。野球の神様が憎い。
 あん時、オレ、打球がこっち来んなって念じたじゃねぇか。――それなのに、何でくんだよ。
「兄ちゃん。タコス食べないんならちょうだい」
「おめー、いっぱい食い過ぎて太んなよ。ぶよぶよの正捕手なんてかっこわりぃだろ? ――その前に、お前が正捕手になれるか謎だけどな」
「むっ。いっぱい食ってもいっぱい運動するからいいもん」
 結局利央はタコスをオレから強奪した。
 ――それでいいんだ。利央。お前はそれでいい。
 決して、オレのようにはなるんじゃねぇぞ。負けからでも何かを学ぶ、滝井のような男になってくれ。
 ん? 今、オレはどうして滝井のことを考えたんだ。滝井なんて、あいつもオレには関係ないじゃん。
 オレは――勝つ為の野球をする。野球を楽しみたいだとか、健全な高校野球とかほざいてるヤツ、全員ぶっ潰してやる!
 オレは、野球の楽しさすら奪われたのだから……。
 野球なんて、勝てばいいんだ。例え、反則だと言われようと……。
 それにオレは合図をするだけだが、やるのは倉田や、オレが選んだ選手だ。――実際、いい駒だったぜ。倉田は。最後は綺麗ごと言ってやめてったけど、考えがあめぇんだよ。
 このことが明らかになったら、てめーだって非難の矢面に立たされるんだからな。
 そう思って、オレは少し溜飲を下げた。オレは残りの料理を平らげた。

 ――さてと、飯も終わったし、部屋の掃除でもやるか。
 窓を開けて空気入れ替えて――と。
 オレはばあちゃんからもらったロザリオが落ちているのに気付いた。
 何だ。こんなところにあったのか。ばあちゃんのロザリオ。ばあちゃんがオレと利央にそれぞれくれたロザリオ。オレと違って利央はどうやら肌身離さず持っているようだが。ばあちゃんもオレと利央に分け隔てなく接してくれた。――オレだって昔は可愛かったんだぜ。
 だから……まぁ、あの敗け試合がオレの野球人生に泥を塗った訳で……あれがなければ、オレは挫折を味わうこともなかった。
 利央。今度もまた負けたら、おめーの仇は兄ちゃんがとってやる。だから、お前だけは清らかなままでいてくれ。
 ――はっ。オレも大概きもちわりーな。今年は美丞だって日農大に負けてるしな。
 けど、利央だけは、兄ちゃんがちゃんと守ってやるからな。オレは神様なんて信じなくなったけど、利央は純粋に神様信じてるからな。――もしかして、本当に万が一神様がいるなら、利央にだけは加護を与えてくれ。ばあちゃんも利央だけは守ってくれ……。

後書き
おお振りの悪役ナンバーワン、仲沢呂佳さんの話。
好きに書いてたら随分利央ラブになってしまいました(笑)。
でも、こういうところもあって欲しいなと思う、ま、私なりの願望です。
2018.12.15

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