ユーリ・ペトロフの憂鬱

「悪魔! 私も殺す気だね! あの人と同じように!」
 老境の女性が投げたグラスをユーリは避けた。グラスは壁に当たって砕けた。
(お母さん)
 ユーリは女性をなだめようとした。だが、無駄だった。
「悪魔……おまえなんか悪魔だ……決してあの人との息子なんかではない……」
 そういう母を見ているのは辛かった。母も辛いのだろう。いっそう憂鬱が深まる。
 父を殺したのは自分である。ユーリは確かに、自分が悪魔だと思っていた時期もあった。
「出て行け! この悪魔!」
 こんな母を放ってはおけない。だが、ユーリもいっぱいいっぱいだった。
 母が寝た後、ユーリは外出した。わかってはいるがいたたまれなかった。
 今は四月。春爛漫の時期だと言うのに、ユーリの心は凍てついたままだった。
(ヒーローか……)
 ユーリの父は、レジェンドという、知らない人はいないヒーローだった。
 ユーリは――いわゆるアンチヒーロー、ルナティックとして、この世を裁いている。
 どこかで飲みたかった。
 いつの間にか、場末のバーの前に来ていた。ほとんど無意識に辿り着いたのだろう。
 こんな時は、飲むに限る。
 ユーリは酒場のスイングドアを開けた。
 ――と、見知った顔があった。
「あっれー。管理官さん」
 鏑木・T・虎徹だった。相変わらず、あの似合わないアイパッチをしている。変な髭も相変わらずだ。
(虎徹……)
 素顔が公開されたというのに、まだこの男はアイパッチをしている。秘密保持がヒーローとしての条件なのだそうだ。
「飲みますかぁ? こっち来てくださいよ」
 虎徹の誘いにユーリは笑った。
「ええ。それでは遠慮なく」
 虎徹は酒を注文した。焼酎、というものらしい。
「管理官さんは?」
「ユーリでいい」
「――ユーリさん。何飲む?」
「何でも」
「じゃあ、同じのください」
「あいよ」
 店の主人が答える。焼酎の入ったグラスが置かれた。
「で、今日はどうしたんですか?」
「別に――どうもしません」
「……何かあったんですか?」
 何故わかったのだろう。
「ええ。ちょっと疲れてまして」
「仕事のことですか?」
「ええ」
「大変ですねぇ、管理官というのも」
 仕事を増やしているのは貴方でしょう――ユーリはそう言いそうになった。だが、虎徹のアイパッチから覗く人懐っこい目を見ていると、こんな時に野暮だな、と思い返した。
「貴方も大変でしょう――ヒーローとしての仕事も」
 能力が減退しているのだから。
 だが、虎徹はにかっと笑った。
「ワンミニッツヒーローになってからというもの、毎日が楽しくて仕方ないっすよ」
 この男は――どうして超えられたのだろう。ユーリの父、レジェンドも超えられなかった壁を。
 虎徹の陽気さを見て思う。ユーリは彼に好感めいたものを持つようになっていた。
 彼と話をしながら、ユーリは何となく気が晴れるのを覚えた。
「何かあったのかって言いましたよね」
「ええ。何ですか?」
「ちょっと――憂鬱になりましてね。これからどうしたらいいのかって」
 そんな台詞がするっと出て来た。
「ふぅん、そういえば……ユーリさん辛そうでしたからね。言うに言えない気持ちもあるでしょう」
「仕事に打ち込んでいると楽になりますが」
「あ、それわかる! 俺も戦っている時、充実していますから」
 貴方には相棒のバーナビー・ブルックス・Jrがいますからね。――ユーリは心の中で呟いた。
「ワイルドタイガ―!」
「んだ? ……なんだ、藤宮か」
「お久しぶり。タイガ―にペトロフ管理官」
「知り合いなんですか? タイガ―と」
「ああ。俺のこと記事にしてくれた。俺はその記事見てないけどな」
「見ない方がいいですよ」
「ああ。俺もあの時の記事は見て欲しくないな。自分で書いておいてあれなんだけど」
 藤宮――藤宮圭人が言った。
 この男は悪徳ジャーナリストだった。だが、今はそんな匂いがしない。何があったんだろう。
「俺な――方針転換したんだ。タイガ―のファンになったぜ! タイガ―がワンミニッツヒーローになってから」
 藤宮の瞳は、少年のようにきらきらとしていた。
 タイガ―が二部リーグに復帰してからというもの、タイガ―はまたもや人気者になった。
『中年の星』――そう呼ばれてもいる。
 タイガ―の活躍ぶりは、ユーリに勇気を与えると共に、少し嫉妬も感じさせた。
(父さんだって……能力が減退したって、虎徹のように開き直ることができれば、今頃――)
 ここは、居心地がいい。
 帰りたくない――家に。
 父の亡霊に憑かれた母のいる家に。
 ユーリは未だに独身である。家庭というものに夢を持てないのだ。
 それに――自分は母の面倒をみなければならない。多分、一生。
 虎徹は妻を亡くしたというが、家族には恵まれているのだろう。あの太陽のような明るさはどうだ。
「タイガ―は、レジェンドが憧れのヒーローだって言ったけど……なして?」
「もう――言ったことあるでしょう? 藤宮さん」
「もう一回聞きたいなぁ……なんて。ペトロフ管理官も聞きたいでしょ?」
「ええ。是非」
「俺はレジェンドに会ったことがあったから――」
 それから虎徹は、レジェンドとの出会いの様子から、レジェンドとヒーローになる約束をした経緯まで話した。
「俺がヒーローになれたのは――レジェンドのおかげだよ」
「……レジェンドが、ですか」
 ユーリがぽつりと言った。
 それでは、自分の父は虎徹に影響を与えたことになるというのか。
 父がいなければ、虎徹はヒーローにもならず――今まで彼に助けられた人々が救われることも無かったというわけか。彼自身もぐれて犯罪に走っていたかもしれない。
 父さんは、役に立っている。
 ユーリは――久しぶりに少し心が晴れた。心の底には、悩みが澱のように沈殿しているのだが。
 レジェンドと今の虎徹が出会っていれば――だが、それは詮無い繰言だ。
「今日は、ありがとうございました。代金、ここに置いときます」
「ああ、すみません。つい、藤宮さんとの話に夢中になってしまって――俺がおごりますよ」
「いえ――私は金だけはあるので」
「……はぁ」
「それじゃ。楽しかったですよ。タイガ―さん」
 ユーリは酒場を出た。体にまつわる空気もどこか優しい。春だな――ユーリはやっと、身の回りの暖かさに気がついた。
 この心の氷も、いつかは溶ける日が来るであろうか。

後書き
タイトルは『涼○ハルヒの憂鬱』をもじりました。
2012.4.16

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