夜の気配

 アーサーとアルフレッドの仲は、いつにもまして険悪である。
「まぁまぁ、お二人とも。柚子茶でも飲んで機嫌良くなってください」
 二人の共通の友人である菊が言った。
 今、アーサーとアルフレッドは、この異国の青年(本人は爺さんだと言ってるが、どう見ても若僧にしか見えない)の家に来ているのである。
 菊も、上司に頼まれたのだ。
 指令は、アーサーとアルフレッドを仲直りさせること。
 それで、今のところ直接の利害関係はない菊に白羽の矢が立ったのだ。
 だが、菊は嫌そうな顔を見せない。それどころか楽しそうに笑っている。
「サンキューだぞ、菊。どこかの誰かさんとは大違いなんだぞ」
「おまえこそ見習えよ、馬鹿」
 喧嘩は相変わらず続いている。
 アーサーとアルフレッドが柚子茶を口に含む。
「うん。美味しい。紅茶より美味しいかもね」
「なんだよ。俺の家の特産物にケチつける気か?」
 紅茶より美味しいと言われ、アーサーはムッとして言い返した。たとえ柚子茶がどんなに美味しくとも。
「――甘いな」
 アーサーは、苦虫を噛み潰したような口調で言った。
「ええ。甘いでしょうね」
「――不味くはないが……甘いな」
「マーマレードとかに味が似ているでしょう?」
「うん……まぁな」
 アルフレッドがいなかったら、もっと素直に褒めたかもしれないが、今のアーサーは多少菊に対しても依怙地になっている。
「アーサーは味オンチだから、感想訊いたって無駄だよ」
「んだと?! このハンバーガー野郎!」
 アーサーが立ち上った。
「どっちが強いか肌でわからせてやる!」
「よぉし! 表に出ようじゃないか」
「止しなさい! 二人とも!」
 菊の顔が変わり、眉が吊り上がる。そうすると、年長者の風格が現われ、アーサーもアルフレッドも思わずたじろぐ。
(ちっ。このわけのわからない迫力には負けるな)
 アーサーは密かに思った。アルフレッドも同じ思いであったろう。
 菊は、滅多なことでは怒らない。その菊にきつい顔をされたので、アルフレッドはぽかんとして見ている。
「あっ、すみません。私ったら。こんなことで……とにかく、あなた達は早く元に戻った方がいいですよ」
「元に戻る、とは?」
「喧嘩はしてもいいんですけど、さっさと仲直りしてください。私だって迷惑してるんです」
「でもなぁ、菊」
「でもね、菊」
「「全部こいつが悪い!」」
 アーサーとアルフレッドが互いに互いを指差す。
 菊は、はぁ、と溜息を吐いた。
「じゃあ、お風呂の準備が出来ていますので、お入りになって下さい。飲み終わったら」
 アーサーとアルフレッドは怖い顔をして睨み合う。
「ご一緒に入ってもよろしいのですよ。お二方。私は後で湯浴みしますので」
「やーなこった」
「こいつと入る気なんてしないな」
 アルフレッドとアーサーが口々に言う。
「仕方ないですねぇ。じゃあ、どちらが先に入るか、じゃんけんでも何でもいいから決めてください」
「じゃんけん~?」
 二人は心底嫌そうな顔をした。
「どうしたんですか?」
「じゃんけんで物事決めるなんて。しかもこいつと」
「それは俺の台詞なんだぞ」
「じゃんけんじゃなくあみだくじでも――」
 一触即発の二人の間を、菊が遮る。
「そうじゃなくて、こいつの入った風呂に入るのが嫌なの!」
「俺だって嫌だ!」
「駄々っ子ですか。あなた方。それじゃ、勝負に勝てばいいだけの話でしょうが」
「あっ。そっか」
 アルフレッドがぽんと手を打ち鳴らす。
「こんな簡単なことに気付けないとは、アル並みの馬鹿だな。俺も」
 アーサーは、アルフレッドをアルと呼ぶ。
「んー? なんか言った?」
 しっかり聴こえてるくせに、アルフレッドは難癖つけようとする。
「はいはい。何でもいいから決めちゃってください」
 菊はすっかり呆れ顔だ。しかし、怒気は抜けている。基本的には温和な性格なのだ。
「何で勝負するか、菊が決めて。俺、アーサーの提案とか聞く気ないから」
「てめー、どこまで俺に逆らえば気が済むんだよ!」
「へへーん。いつまでも君の弟じゃないからねー」
「それ、関係あんのか?!」
「じゃあ……やっぱりじゃんけんで決めてください」
 菊は匙を投げた。
「よーし、俺が勝ってやる!」
「負けないぞー」
 せーのっ! じゃんけんぽん!(と、アメリカやイギリスでも言うのかは謎である)
 勝負は、あいこが六回続いて、アーサーが勝った。
「ふぅ。やれやれ。勝てて良かったよ。ほんと」
 しっかし菊ってば、こんな広い露天風呂を持ってて幸せだよなー、とアーサーは思いっきり伸びをする。
「あいつら……いねぇのか」
 河童や妖怪がこの風呂に入っていたら、是非とも愚痴を聞いてもらいたかったのであるが――いや、そこに他人を巻き込んじゃいけない。
 菊をとっくに巻き込んでいることについては考えていないアーサーだった。
 きっかけは些細なことだった。
 常備しているアイスをアーサーが忘れたのである。
 アルフレッドは怒った。それまでなら、普通の喧嘩で、新しいアイスを買ってやれば、アルフレッドはご機嫌なのだが――
(いいよ、もう。やっぱりアーサーは、他に好きな国ができたんだね)
(はぁ? 何でそういうことになるんだよ)
(だってそうじゃんか。フランスとも仲良くしてたよね)
(あいつとは、ただの腐れ縁だ!)
(にしちゃ、仲良さそうだけど)
(てんめぇ~)
 俺には、アルフレッドしかいないというのに。
(それから……たとえば菊とかさ)
(菊ぅ?! あれはただの友達だよ それにあいつはヘラクレスの恋人だろ?!)
(あと、イタリアも……)
(何馬鹿なこと言ってんだ。どうしてイタリアが出てくるんだ!)
(だって、君、イタリアには手加減するだろ?)
(したっけか……?)
 まぁ、アルフレッドに対してとは違った対応をしているかもしれないが。
(おまえちょっとひがんでるんじゃないか?)
 そう言われてアルフレッドは唇を噛みしめた。
(君なんかには一生わからないね。俺の気持ちなんか!)
 そうして、アルフレッドはアーサーの家から飛び出して行った。以来ずっとぎくしゃくしたままだ。
(何だってんだ、一体……訳わかんねぇ)
 アーサーは湯船から上がると、色素の薄い金髪にお湯を浴びせた。
 風呂から上がり寝床に入っても、アーサーは輾転反側していた。
「だーっ! 暑い! 眠れねぇ」
 水でも飲も……そう思って向かった先は台所。
「菊……何しているんだ?」
「ああ。掃除と、朝ごはんの準備を」
「朝食の準備なら、明日にでも」
「いいえ。せっかく客人が来ているのですから、少々手の込んだ物を、と思いまして」
 アーサーも、この台詞には感心した。アルフレッドからは、絶対聞けないような言葉だ。
(いっそ菊に惚れてればよかったのにな……)
 菊は、女だったら良妻賢母型に違いない。
 しかし、菊は女ではないし、アーサーが好きなのは、あの超大国のやんちゃ坊主だ。
(ガキめ、眼鏡かけてりゃいいってもんでもあるまいに)
 アーサーがアルフレッドの眼鏡姿を初めて見た時の感想がこれだった。しかも、アルフレッドはその眼鏡に『テキサス』という名前をつけて大事にしている。
 アーサーとテキサス、どっちが好きかと問われれば、言下に「テキサス!」と言うような彼だ。
 ああ、なのに……本気で参ってる。
「アーサーさん、あなたは何しに来たんですか?」
 菊に訊かれて、はっとした。
「水……欲しいなと思って」
「はい、どうぞ」
 菊は蛇口から出た水をコップに注ぎ、アーサーに手渡した。
「ありがとう。ん、うまい」
「そうですか」
 さすがに菊の仕事を増やすのも気が引けたものだから、コップは自分で洗って拭いた。
「暑いなら、窓開けていいですよ。それから襖も」
「わかった」
 アーサーは、菊の言う通りにした。
 その夜――アーサーは、何者かの気配を感じた。
 彼はうつらうつらとしていた。だが、誰かがそこにいるのは感じられた。
(んー。誰だよ、ちくしょう……)
 アーサーは心の中で悪態を吐いた。
 菊ではないだろう。この気配は、菊ではない。
 じゃあ、なんだ?
 夜――それ自体か?
 夜が人の姿をとって、アーサーの部屋に入ってきたんだろうか。
 何を馬鹿な、とは言えなかった。
 それとも、座敷わらしか。だとすれば怖くはない。だが――それらとも少し異質なもののような……。
 すうっと、冷たいものが頬を伝った。
(これは――指?)
 ずいぶん長い指のように思われる。
 気になりつつも、目を覚ます気にはなれなかった。
 アルフレッド。
 いつもだったら、菊の家であれ、抱かれてもいい、と思っていた。その前に、散々抵抗をすることはするが。
 今は喧嘩してるから無理だけれど。
 アルフレッドがいれば、この気味悪さからも解放させられるんだ。
(よりによって、あいつの名前を呼ぶことになるとは――)
 自分がどれだけアルフレッドを好きか、彼自身は知らない。
(助けて、アル、アル、アル――)
 アーサーは布団をかぶり、一心不乱に念じた。
 この期に及んで、呼ぶ名前が神様でも悪魔でもなく、愛しい元弟であるということの滑稽さを、しかし、今のアーサーは笑うことができなかった。
 アルフレッドを呼ぶことで、ピンチに駆け付けた彼が、彼の愛してやまないヒーローみたいに、化け物を退治してくれるかのように。
「アー……サー……」
 その声には聞き覚えがあるような気がした。切なげな響きを帯びて。
 そこで……目を開けようとしたが、怖くて開けられない。
 やがて、怪物は去ってしまい、ようやく安堵したアーサーは、深い眠りに落ちた。

「なぁ、菊。ゆうべ、俺の部屋に来なかったか?」
 アーサーは、食卓の席で質問する。菊ではないことがわかっていてもだ。
「行きませんでしたよ」
 菊は、いつも通りの顔で答えた。
「さぁ、どうぞ」
「あ、どうも」
「俺もお代わり」
「アル!」
 アーサーが、ぎゅっと睨みつけてやった。
「アルフレッドさん……」
「な、何かな~……菊」
「『居候 三杯目には そっと出し』という川柳が我が国にはありましてね。そう堂々とお代わりを要求するもんじゃないですよ」
「わ……わかった」
 アルフレッドは引き下がった。
 本当は彼らは居候ではなく客人なのだが。
「? どうも大人しいな。今朝のアルは」
 アーサーが不思議がった。
「夜、誰か来たのですか? アーサーさんの部屋に」
 菊が話題を変えた。
「ああ。妖怪とかなら平気だけどな。ありゃなんだ? 幽霊か? 俺の知らない化け物か?」
「幽霊……化け物……」
 菊が唖然としている。
「HAHAHA 相変わらず馬鹿なことを言うなぁ、君は。君だったら、その化け物とも仲良くなれんじゃないの?」
 アルフレッドの言葉に、
「いーや。絶対に無理だ! 俺だって化け物によっては拒否反応起こすことぐらいある!」
 アーサーが断固として首を振る。すると――
 アルフレッドは唇を噛み締めて。今にも泣きそうに思われた。
(な……何でおまえがそういう顔をするんだよ)
 アーサーが戸惑っていると、
「アーサーさん。そんな悪い幻覚を見るのは、体を使っていない証拠です。お散歩にでも出ていらしてください」
 菊が、反論を許さない厳しさでアーサーに命令した。アーサーは従うしかなかった。

「アルフレッドさん……馬鹿なことをしましたね」
「菊……」
「アルフレッドさんがアーサーさんの部屋に入っていくところを、私見たんですからね。それでなくても、想像はつきそうなものですけれど」
「……アーサーと一緒の家に寝泊まりしていると思うと落ち着かなくて――」
「それで、夜這いをかけたという訳ですか」
「夜這いだなんて! 夜中にこそこそなんて、ヒーローにあるまじき行為だけれどね! 寝込みは襲わなかったよ」
 ほんとは襲いたかったけど。
 アーサーの寝顔は可愛かったからなぁ。
 アルフレッドは夜目がきく。
 ヒーローの自制心で、やっとこさ、抑えた。
(またここにいると、何するかわからないなぁ……俺)
「もう、化け物の正体はばらしちゃっていいですね」
「え? なんで?」
「これ以上アーサーさんを不眠で苦しめるつもりですか?」
「う……そ、それは……」
「きっと……アーサーさんも許してくださいますよ」
「そうかな」
「そうですとも」
「ようし、ここはヒーローらしく、タネあかししちゃうぞー!」
「がんばってください」
 菊は、そう答えながらも、二人がこの家を出て行くには、しばらく時間がかかりそうだ、と心の中で溜息を吐いた。
「おまえかー! 化け物のふりして俺を脅かしたのはー!!」
 散歩から帰ったアーサーが怒鳴る。
「君が勘違いしただけじゃないか!」
 アルフレッドも応戦する。
「それだけならまだしも!」
「あ、まだしもなんだ」
「俺の部屋に無断で入るなんて許せねぇ! ここは菊の家なんだぞ! TPOをわきまえろってんだ!」
「つまり、菊の家でなかったら、何やってもいいってこと?」
「そうじゃねーーーーーー!!!!!!」
「やっぱりアーサーは菊の方が好きなんだな!」
「まだ言うかこのヤロー!」
「やれやれ。騒がしいですねぇ」
 アーサーとアルフレッドの痴話喧嘩を後目に、菊はポチくんと一緒に縁側の日向ぼっこを楽しんでいる。
 風鈴がちりりんと鳴った。
 今日は涼しくなりそうだ。

後書き
アーサーに夜這いをかけるアルが見たかっただけ。
でも、なんか変な話になりましたね。いや、変な話大好きですが。
それにしても、季節外れにも程がありますね。

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