修羅場中

 本田菊は、もう何時間も前から机に張り付いている。
 何をやっているかというと――
 原稿を描いていたのである。それもマンガの。
 しかし、菊はプロではない。
 近いうちにある、イベントに間に合わせようとしているのだ。
 この説明でわからない方々、どうかそのピュアマインドを大切にしてください。
 リポDを飲みながら、ものすごいスピードでペンを走らせる菊。
 そのペンタッチは、とても美しい。
 事実、雑誌社の人に「うちで描かないか?」と言われたことも、一度や二度ではない。十回や二十回でもきかない。
 それでも、菊は趣味の範囲として楽しんでいる。
 いや。今は修羅場なので、楽しんでいる心の余裕すらないわけだが。
 リポDを飲んで、目を血走らせながら原稿を描いていく菊。
 そこには、いつものおっとりした雰囲気はない。
 さながら戦場だ。
 でも、壁サークルの作家の矜持として、落とすわけにはいかない。
 その横には――
 ポチとたまの世話をしている、ヘラクレス・カルプシの姿が。
 ヘラクレスは、菊の秘密の恋人(バレバレだという説もあるが)である。
「菊……何か、食べなきゃ、体にわるい……」
「でも、そんな時間ないですし」
「俺、日本料理、覚えた。菊の為に」
「何ですか?」
「チャーハン」
 チャーハンは中華料理です――だが、空気を読むことに長けた菊は、黙っていた。
 恋人が自分の為に料理を覚えてくれたのだ。
 それだけでも嬉しいことではないか。
「ありがとうございます。このページを終えたら、一区切りつきますので」
 そう言って菊は、またもペンを握り続けた。
「むり、しないほうがいい。菊……」
「無理じゃありません。いつものことですから」
「菊……」
 ヘラクレスは、後ろから菊を抱き締めた。
「何ですか。今は勘弁してください」
 修羅場中の菊は素っ気ない。
「お相手なら、後でしますから」
「――俺にも手伝うことがあったら、教えてほしい……絵は得意だし」
 普通の絵画の絵と、マンガ絵は違うのだということを、このギリシャの青年に教えるのは難しい。
 あっ、そうだ。
「じゃあ、ヘラクレスさん、背景描いていただけますか?」
「ん。でも、まず腹になにか入れなきゃ」
 ヘラクレスは立ち上がって、台所へ向かった。
 しばらくすると――
 ジャージャジュッジュッジューッ!
 ご飯や具を炒める音と、いい匂いが辺りに漂ってきた。
(ああ、これなら、味も期待できそうですね……)
 一瞬うっとりした菊は、我に返って作業を続けた。今度はトーンだ。
 アシスタント役もやってくれるというし――本当にヘラクレスは……。
 できた恋人だ。
(私なんかには勿体ありませんね)
 菊がこっそり思った。
 それでも、ヘラクレスは菊がいいと言ってくれる。
 幸せだ。とても幸せだ。
「菊……できたよ」
「あ、はい――ありがとうございます」
 菊は微笑みながら答えた。
 ヘラクレスの顔がぽっと赤くなったのは気のせいだろうか。
「菊、今の菊、すごくきれい。俺、笑ってる菊が好き」
「――……そうですか」
 少し、返答に困った。
 そういえば、この数日、原稿にかかりきりで、この青年に構ってやれなかった。
 彼は寂しかったかもしれない。
 それなのに、いつもと変わらず、優しく接してくれる。
 彼以上の恋人はいない、と、断言できた。
 もっとも、菊が恋したのは、ヘラクレスが初めてであるが。相手も同じような事情らしい。
(私みたいなオタクで――ごめんなさい)
 けれど……一度同人をやったことがある人はわかるはずだ。
 苦労は多いが、差し入れや応援の言葉をいただいた時、充実感で報われるということを。
 ヘラクレスには、まるごと受け入れて欲しかった。
 トーンを貼り終えた菊は、ヘラクレスと共に、食卓についた。
「いただきます」
 手を合わせて、蓮華でチャーハンを掬う。
「おいしい……」
「あ、菊、また笑った」
「だって、美味しいですから」
 菊は嬉しかった。空っぽの胃を、恋人の手作りご飯が満たしてくれる。
(同人も恋も上手くいってる……私はなんて恵まれているんでしょう……)
 ヘラクレスは、あっという間に平らげてしまった。続いて菊も。
「あのー……後片付けは私がやりますから。……この本の原稿が終わったら」
「いや……俺がする」
「――お願いできますか?」
「うん」
 台所から水音がする。
 菊は、眠気と戦うことに必死だった。
(ヘラクレスさんにはわるいけれど――何か食べると、眠くなってしまいますねぇ)
 それでも、がんばってペンを動かす。
 原稿は今日中にはあげなければならない。
 菊が焦ってると――
「皿洗い、終わった。――背景、手伝う」
「じゃあ、このシーンの……」
 菊がてきぱきと指示を出す。
「――お願いできますか?」
「――わかった」
 しばらくして――
「できた!」
「もうですか?!」
 これには、菊の方が驚いてしまった。
 しかも、大胆でシャープな綺麗な線だ。迷い線などもない。しかも、人物を引き立てるバックだ。
 これは、この男は――
(才能あるかもしれない)
「ヘラクレスさん、完璧です」
「よかった――菊に褒められるの、一番嬉しい」
 ヘラクレスは照れているようだった。
「今度のイベント、一緒に来てみませんか?」
「――菊が行くなら」
 こうして、ヘラクレスという、恋人兼アシスタント(メシスタント?)のおかげで早く原稿が終わった菊は、〆切前に入稿することができた。

後書き
同人って、一度ハマるとやめられないですよね!
私はインターネットの方に移行してしまいましたが。
それでも、ちゃんとペン持って原稿描いてたことがあるのですよ。
その経験は、今も生きていると思います。あの頃に比べれば、今の小説書きのペースなんて、ゆるいもんです。
菊さんは、データ入稿は覚えてるんでしょうかねぇ……私もよくは知りません。
私が本出したのって、十数年も前のことですからねぇ。ちなみにパプワ本でした。
2010.6.17

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