希日小説『ビーフシチューと肉じゃがと』

 季節外れの風鈴が、ちりんと鳴った。
 障子に縁側、床の間に草書体の文字が書かれた掛け軸。傍には丸いちゃぶ台。和のエッセンスがすっかり染み透っている。
 青いイグサの匂いと、古い木造住宅独特の香りが混じり合っている。それは決して不快なものではない。
 古く、年を経たこの家には、風格が出ている。別の部屋には囲炉裏まである。
 正座のできないヘラクレスが、畳の上で胡坐をかいている。
 その上には猫のたまが乗っかっている。ポチがかたわらでそれを見ている。
 ヘラクレスは、恋人の菊の家に遊びに来ていたのである。菊は今、台所で食事を作っている最中だ。
 開けっぱなしの襖から、いい匂いがここまで流れて来た。ヘラクレスが、ひくひくと鼻をうごめかす。
 やがて、手拭いをあねさんかぶりにした菊がひょこっと現われた。おかっぱ頭の黒髪に黒い目。割烹着姿が板についている菊だが、これでも男である。しかも、もう千年以上生きている。
 対するヘラクレスは、TシャツにGパンの逞しいギリシャ人である。
 この二人が恋に落ちたのだから、周囲はびっくりしていた。でも、本人達は気にしていない。愛があればそれでいいのだ。
「ご飯ができました。今持ってくるから、待っていてください」
「……ん」
 ヘラクレスは無表情に見える顔のままだったが、嬉しくないわけではない。よく見ると、口角が僅かに上がっているのがわかるだろう。
「菊の料理、早く食べたい」
「ヘラクレスさん……」
「菊のことも早く食べたい」
「もう。なに言ってるんですか! そんな言葉ばっかり覚えて」
 照れながら菊は言ったが、どうやら満更でもないらしい。
「食事が先ですよ。いいですね」
 やがて菊は料理を運んできた。
「ポチもたまも、ご飯ですよ」
 飼い犬と飼い猫にも餌をやる。その姿もかいがいしい。美味しそうに食べているポチ達を見て、菊も満足そうだ。
 私達もいただきましょう、と菊はいただきます、手を合わせる。ヘラクレスも慌ててそれに従った。
「菊、これはなに?」
 初めて見る料理に、ヘラクレスは気になって菊に質問する。
「ああ。これは、アーサーさんから教えていただいた『ビーフシチュー』というのと、それをアレンジした『肉じゃが』というものです。お米のご飯は、何度も食べたことありますよね」
「アーサー……」
 ヘラクレスは複雑な顔になっていたに違いなかった。
「どうなさいました?」
「別に……」
 アーサーの料理、と聞くと、どうも食欲が湧かない。それに、アーサーは嫌いではないのだが、彼に対する想いは、これまた複雑なものである。
 先に肉じゃがを食べようと、ヘラクレスは箸を取った。だが、いくら練習しても、箸の使い方は一向に上達しない。菊は器用だな、と恋人の手元を見ながらそう思う。仕方ないので、ヘラクレスは握り箸に変える。
「ああ。ヘラクレスさん。お箸の持ち方はそうではありませんよ」
「……ごめん」
 一国の文化を踏みにじってしまったか、と、いつものようにヘラクレスは後悔する。箸の使い方も日本料理のマナーのひとつで、文化の一側面であろう。自分は、箸ひとつさえ操れないのか、と情けなくなってきたヘラクレスに菊が、
「ヘラクレスさん。口を開けてください」
 と、優しい声で促した。
 素直なヘラクレスは、菊の言った通り、口を大きく開けた。それを見て、菊はくすくす笑う。
「はい、あーん」
 菊は箸で摘まんだ一口サイズのじゃがいもをヘラクレスの口に運ぶ。ヘラクレスはそれをもぐもぐと咀嚼する。ごくんと飲み込む。じゃがいもに染み込んだ醤油味が舌の上に広がる。大好きな日本の味だ。
「……美味しい」
「良かったです。もう一回どうですか?」
「……うん」
 ヘラクレスは、今度は自主的に口を「あーん」の状態にする。菊からもらったにんじんを、ヘラクレスは丁寧に噛み締める。
 肉じゃがを食べ終わると(ヘラクレスは結局、勧められるままに菊の分まで食べてしまった)、ヘラクレスは満足そうに言った。
「やっぱり、菊の料理は世界一だ」
「ありがとうございます。ヘラクレスさんにそう言っていただくと嬉しいです」
 あねさんかぶりの手拭いを外した菊が、満面の笑みを浮かべた。そうすると、まだ十代の少年に見える。とても千歳以上とは思えない。それに、菊はどこか中性的な顔立ちをしている。ヘラクレスと同じで、表情は動かない質だが、顔の造作は整っていて、可愛い。女性であると言われても信じただろう。
 ヘラクレスは、その菊の笑顔が愛しいと思った。他人がいる時は滅多に見せない、全開の笑顔である。どんな表情の菊も好きではあるのだが。
「菊……可愛い」
「ヘラクレスさん……」
 ちゃぶ台の上では、ビーフシチューがゆっくりと冷えて行った。
「あ、そうだ。ビーフシチューも食べてみませんか? 結構美味しく作れたと思います。その……アーサーさんよりは」
 苦笑交じりで、菊が言う。
 アーサーの料理の下手さ加減は、世界中で有名である。決して嫌いなのではなさそうだが。ビーフシチューは、アーサーがまともにできる数少ない料理のひとつである。菊の上司も喜んで食べていた。肉じゃがのルーツになった料理である。
「じゃあ、今度は俺が菊に『あーん』する」
「おやおや。もう覚えてしまったのですね。新婚みたいで恥ずかしいのですが」
「構わない。俺と菊は恋人だから」
「そうですね」
「菊は、俺と恋人でよかった?」
 頬を赤らめた菊が、ヘラクレスの耳に口を寄せて囁いた。
「今更ですが……よかったですよ、ヘラクレスさん」
「菊……」
 ヘラクレスは小柄な恋人を抱き締めた。菊も抱き締め返した。
 ビーフシチューは、見向きもしない二人の間で、それでも食べられるのを待っている。
「俺の為に……料理を作ってくれてありがとう」
「こちらこそ。他の方に手料理を振る舞うのがこんなに楽しいなんて、しばらく忘れてました」
 ヘラクレスの菊を抱く手に力が篭もる。
 ぽちとたまがその光景を眺めていた。どことなく、嬉しそうだった。飼い主の気持ちがわかるらしい。邪魔しないように静かに佇んでいた。
「これじゃ、ビーフシチューが食べられませんね」
「『あーん』もできない?」
「できませんね」
「後で……じゃだめ?」
「だめなことはありませんけど……」
「俺、菊が欲しい」
「気持ちはわかりますけど……後片付けもしないといけませんし」
 ヘラクレスは、菊から体を離した。菊の顔は頬が紅潮していて、恥じらっているようだ。
「ビーフシチューも『あーん』する?」
「……ええ」
 裸体の検査をやる?と以前ヘラクレスが訊いた時には、しません、とけんもほろろに返されたが、それから比べるとずいぶん自分達の関係は進歩したと思われる。
 ――裸体の検査めいたことは、時々やるようになってはいたのだが。
 だけれど、いつまで経っても初めてのように振る舞う慎ましい菊が、ヘラクレスは好きだ。ギリシャの歴史も古いし、ずいぶん男や女とも寝たが、ここまで夢中になったのは、菊が初めてである。
 人間同士だと、プロポーズするところだが、自分達は国である。ギリシャ、という国と、日本、という国と。結婚しようとするなら、やっかいな問題も多い。
 まず、上司が反対するだろう。今は見て見ぬふりをしてくれてはいるが。
 何故、自分達は国に生まれて来たのだろう、と思ったこともないではない。二人で暮らすには、いろいろ障害が多過ぎるのだ。
 時々会うのなら、暗黙の了解のうちだ。だが、ヘラクレスは始終菊と一緒にいたかった。長い寿命なんていらない。菊と一緒に生きたかった。
 菊と、一緒に死にたかった。
 永遠に若いままというのも、それはそれで、菊と過ごす時間がたくさんあって、悪いことばかりではないが、たまに人間が羨ましくなる。ヘラクレス達にできることといえば、共に過ごすささやかな時間を増やすことぐらい。しかし、ヘラクレスにも菊にも、国としての仕事がある。かなり忙しい時もある。
 おまけに、菊は『ドウジンカツドウ』という、おっそろしく時間を食う作業までこなしているのだ(ヘラクレスは、同人活動が何かを知らない)。
 会いたくて、会えない時はがっかりして、心の底から無力感が訪れる。
 だから今、菊と食事し、恋を語る幸せに酔うことのできる今を大切にしよう。
 ヘラクレスは、匙でシチューを掬うと、菊に言った。
「菊……あーん」
「ふふ。変な気持ちですね」
 そう言いながらも、菊は、ヘラクレスに従った。
「うん、やっぱり美味しいです。今度は私の番ですよ」
 二人はビーフシチューを食べて食べさせ、皿が空になる頃には、すっかり豊かな気持ちになった。
「菊……恋人同士の約束、忘れてない?」
 ヘラクレスの遠回しな誘いに、菊はこくんと頷いた。また恥ずかしそうに顔を赤らめながら。順序を踏んで、時間をかけて口説けば、菊も素直になれるようである。夜はまだ長い。ヘラクレスは菊を連れて、菊の部屋へ向かった。

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