明治廓事情

 時は明治――
 文明開化が始まってからそんなに時も経たぬ頃。
 羅生門の河岸に鏑木虎徹という下層遊女がいた。遊女と言っても男であるが。
 彼がお茶を挽くのはいつものことだったが、物好きな客にはどういうわけか贔屓にされていた。
「虎徹くん。お客さんだよ」
 番頭の路井図(通称ロイズさん)が湿っぽい声で言った。
「へぇー。俺に?」
「そ、いつもだと他に誰かいるんだけど、みんな出払っててねぇ……暇なのは君しかいないんだよ」
 そしてロイズは溜息を吐いた。
「君には勿体ないお客さんかねぇ……」
 ロイズの言葉に虎徹はムッとした。
「そんなに言うなら早く通してくださいよ」
「そうだねぇ……」
 障子がすらっと開いた。
 姿のいい青年が現われた。
 年は二十代ぐらいか。くすんだ金色のカールした髪に切れ長の目。背が高く、着物も見事に着こなしていた。
 およそこんなところに来る客ではない。
「メリケンですか――」
 そう呟いた虎徹を青年はじろりと睨んだ。
 あ、気を悪くしたかな、と虎徹は思った。
「とんだ無作法を失礼しました。鏑木虎徹と申します。宜しくお願いいたします」
「――僕はただ、雨宿りにここに立ち寄っただけですが。お茶だけで結構です」
「いやぁ、そんな勿体ない事を。せっかく来たのだから遊んでいかれてはどうですか? 幸いうちの虎徹は床上手ですし」
 虎徹も愛想良く笑った。青年は顔を背けた。
(あ、あれ……?)
「手軽に済ませたいのだったらちょんの間でもどうでしょう?」
「ちょんの間?」
「はい」
 ロイズの勧めに青年はしばらく考え込んでいたが、
「――まぁ良いでしょう」
 と答えた。
「お部屋にご案内します」
 虎徹は青年と部屋で二人きりになった。
「あの……」
「何ですか?」
「お名前を――宜しければ」
「バーナビーだ。バーナビー・ブルックス・Jr」
「バニ―?」
「バーナビーです」
「すみません、よく聞き取れなくて。それに――バニ―は俺の知ってるただひとつの外国語なんですよ」
「意味はわかってますか?」
「兎――です」
「僕が兎に見えますか?」
「うーん。よくわかりません」
「――まぁ、いいでしょう。じっくり奉仕してください。ここはその為の店でしょう?」
「はい……」
 それから――
 虎徹は夢のような時間を過ごした。
 終わった後、バーナビーは何故かほんの少し穏やかな表情になっていた。
「虎徹さん。今日はありがとうございました」
「いえいえ――」
「また来ます」
 バーナビーは部屋を後にした。桃色に頬を染めていたのは気のせいだったか――。

 次の日もバーナビーは約束通りに来た。
「一緒に寝て下さい。――虎徹さん」
 バーナビーはロイズに多額の賄賂を贈った。ロイズは狂喜乱舞していた。
「いい? 絶対逃がしちゃだめよ。あの客」
「わかってますって――」
 虎徹はバーナビーの齎す快楽に溺れた。
 これが南蛮の性戯かと頭のどこかで感心していた。
「虎徹さん――」
「はい?」
「虎徹さんはどうしてここで働いているんですか?」
「俺の親父の借金のカタに売られたんだよ。でも、親父が悪いわけじゃないぞ。高利貸しが悪いんだ」
「――虎徹さん。良かったら、僕と……」
 バーナビーは言いかけたが、途中でやめてしまった。
「バニ―ちゃん。アンタ日本語達者だな」
「父が貿易商なので、いろいろな国の言葉を学ばされました」
「いいな」
「は?」
「いろんな国の言葉がしゃべれていいな」
「虎徹さんもすぐ覚えますよ。僕と一緒に来てください」
「どこへ?」
「僕の会社へ――僕のその……妻として」
「なんだってぇぇぇぇぇ!」
 虎徹はつい大声を出してしまった。
「虎徹さん……耳、痛いです」
「俺みてぇなくたびれた男と結婚する気か? アンタ。冗談だろ? な、冗談だよな」
「冗談ではありません。僕が貴方を落籍します」
 開いた口がふさがらない虎徹であった。

 バーナビーは虎徹の馴染みの客になった後、ロイズに掛け合ってみた。虎徹もその場にいた。ロイズは嬉しそうに言った。
「いいねぇ、虎徹くん。こんな極上の相手ができて。羨ましいたらありゃしない。いいよ。虎徹くんは貴方といた方が幸せでしょう。後で店の亭主と話してみます」
「ありがとうございます」
 バーナビーは深く頭を下げた。
「ありがとう。ロイズさん」
 虎徹も涙を浮かべながら礼を言った。

 事を終えると、バーナビーはすっくと立ち上がって脱いだ着物を着始めた。
「どうした? バニ―ちゃん」
 虎徹が訊く。
「ちょっと水を飲んできます。喉が渇いたもので」
「俺が持ってこようか?」
「――いいえ。ついでに外の空気も吸いたいし。帰ってきたらまた可愛がってさしあげますよ。では」
 耳朶を噛んでやると虎徹は真っ赤になった。
 可愛いな。
 気分転換したらすぐ戻ろうとバーナビーは思った。
 バーナビーが廊下を歩いていると、話し声が聞こえた。
「だからさぁ――虎徹くん自由にしてやってくださいませんか?」
 ロイズの声だ。
「駄目だね」
 ――バーナビーはつい聞き耳を立てた。
「虎徹を生かさず殺さず繋いどけ。話によるとあのメリケンは虎徹に夢中らしいからな。搾れるったけ搾っとけ。簡単に落籍させずにな」
 ロイズの話の相手はこの店の亭主らしい。
「ですが――」
 ガターン。襖が壊れた。
「そんなことを考えていたのですか……」
 可哀想な虎徹さん。
 今、僕が解放してあげますからね。
 顔を強張らせた亭主が逃げようとするかの如く立ち上がった。
 ぎらり。バーナビーが睨んだ。
「ま、待て……今のは冗談……嘘だから……」
 バーナビーの眼光に怯えながら亭主はガタガタと震えている。
「この人でなしが!」
「わ、悪かった……鏑木虎徹は好きなようにしていい。盛りも過ぎたし、あんなくたびれた女郎の一人や二人で済むのなら――」
 バーナビーはそれを聞いて男に体当たりした。相手は壁に頭をぶつけて気絶してしまった。
「僕の虎徹さんを悪く言った罰です」
「バーナビーさん……私がしたくてもできなかったことをやってくださって感謝します」
 ロイズが揉み手をしながら笑った。
「ふん」
「虎徹くんと二人で幸せになってくださいね」
「当然です。僕は彼といれば幸せですし、僕も彼のことを幸せにしてみせます」

「お、バニ―ちゃん、帰ってき――あっ!」
 バーナビーは虎徹をお姫様抱っこした。
「虎徹さん! 貴方と一緒ならどこまでも行けます! 世界の果てまでも!」
 二人は嵐のように駆け抜けて行った。

 ――その後、鏑木虎徹はバーナビー・ブルックス・Jrの元に嫁ぎ、海を渡って幸せに暮らしたという。

後書き
以前、杏里さんとのメールのやり取りでできたプロットに肉付けしたものです。
明治に廓がまだあるのか私は知りませんが(笑)。
2011.11.16

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