黒い毒花
あたしは霧香を殺したくない――。
そんな感情に気付いたのは、いつの頃からだったろう。
クロエ。
彼女が現れてから――。
クロエは、霧香が好き。霧香を愛している。
(では、貴女は――?)
クロエの声で心の中に木霊が響く。
あたしは眉を寄せていたことだろう。何故なら――。
あたしも霧香を愛しているから。
「ただいま」
霧香の抑揚のない声が聞こえる。
「おかえり」
あたしは答える。この関係が崩れなければいい。クロエなど――殺してやりたい。
「――オレンジ買ってきた。安かったから」
「そう……」
クロエ、彼女が来てから、あたし達の関係は変わった。
いえ、変わったのはその前からで――。
今のあたしは、霧香を殺したくない。
ミロシュが現れた時も、あたしは、「あの男はやめておきなさい」みたいなことを言ったような気がする。
――まるで口うるさい恋人ね。あたしはくすっと笑った。
「ミレイユ、どうしたの?」
「いえ、あなたが来てから、あたしも変わったな、と思って」
霧香が微かに笑った。クロエもこんな彼女が好きなのだろう。
「オレンジ、どうする?」
「そうね――ジュースにしてくれる? いただくわ」
「わかった」
ジュースだけでなく、霧香はお茶を淹れるのが上手い。霧香は料理が上手い。クロエも霧香のお茶を飲んで、美味しいと言った。
霧香は、お茶を上手に淹れるコツをいつかクロエに教えるのだろうか。
あたしはあまり面白くない想像をした。
霧香はあたしの相棒。誰にも渡さない。ミロシュにも、クロエにも。
ミロシュはチェコだったかスロバキアだったかの人間で、兵に志願しようとしていた。その前に死んでしまったけれど。
原因は霧香だ。
ううん。霧香が直接の原因ではないのだけれど――霧香がいなければ、ミロシュも生きていた。
彼のそばに霧香がいなければ――。
あたしも霧香も、人を愛してはいけない人間だ。あたし達が愛していいのは、同類の人間だけ。
クロエも同類ね。
でも、あたしはクロエを愛することはできない。友達にはなれたにしても。
ううん。それも無理。クロエは霧香を愛しているし、第一、あたしとクロエは気が合わない。
仔犬のような目付きであたしを慕う霧香が好き。
服装に構わなくても様になる霧香が好き。
あたしのピンチを何度も助けた霧香が好き。
真のノワールですって?! ふざけないで! クロエ!
本当のノワールはあたしと霧香。このミレイユ・ブーケと夕叢霧香のことなのよ!
そう。あたしは霧香とずっと一緒にいたい。それは、クロエの謎は気になるけれど。
ソルダの子。彼女はそう言った。あたしのことを。
あたしは、母に似ているのだそうだ。性格も、気質も。
それでは、母が霧香に出会ったなら、母も霧香を愛しただろうか。
あたしはふるふると横に首を振った。――馬鹿な考えね。
クロエは辛辣なあたしの恋敵。心のどこかでクロエに惹かれる部分もあるのだけれど――。
やっぱりダメね。あたしには霧香がいるもの。
「よいしょっと」
霧香は重い物を持つ時、そう言う。その様も、可憐で可愛らしくて――あたしの身の回りにはいないタイプ。日本人らしい慎ましさがある。
――あたしはアンタを殺すわ。
いつか、霧香に言った言葉。でも、今はそんな気持ちはないし、第一、霧香の身に害が及ぶ時は、クロエがあたしを殺しに来るでしょうから。
ソルダの子。
クロエ。アンタにも言ってやりたいわ。『ソルダの犬』と。
まぁ、あの娘は何を言われてもびくともしないでしょうけど。
せいぜいあの細い吊り目を細めるだけで。
彼女は他に人を愛したことはあるのかしら。クロエ。油断ならない娘よね。アンタは。
霧香がアンタの命を狙っていた時も、あなたは隙を見せなかった。あたしだったら確実に殺されていたわね。霧香に殺されても仕方ないことしてるけど。
でも――霧香はあたしにだけは手をかけない。あたしも、霧香だけは殺せない。
そう、愛してしまったのだから。
それに気付かせたのは、クロエ、アンタよ。
この代償は高くつくわね。
今に見てらっしゃい。今は泳がせておいてあげるけど、今に必ず――。
あたしはぎゅっと拳を握った。
「ミレイユ。ジュースよ」
「ありがとう。そこに置いといて」
「うん」
――霧香が好き。多分、霧香もあたしのことが好き。懐いているだけかもしれないけど。
ミレイユ。仕様のない娘ね。あたし。
あたしは自問自答する。
霧香が見せる信頼の目付き。クロエにもするようになるのかしら。クロエとあたしが敵対したら霧香、あなたはどちらを選ぶ。
それとも、何もせずにあの空虚な目付きであたし達の争いを見つめているだけかしら。困ったように。
――いいわ。そういうアンタも好きだから。
でも――何度もあたしを助けてくれてありがとう。
霧香がいなかったら、あたし、とっくに殺されてたわね。
そして――クロエもあたし達を助けている。
ソルダに有用な人材である間は生かしておく。クロエはそう考えていそうよね。尤も、あの女は何を考えているかわからないけれど。
友達――か。
いいえ。あたし達は友達になれない。例え、あたしの両親が、元ソルダの人間だったとしても。
クロエはナイフみたいな武器で戦う。基本拳銃で戦うあたし達とは違う。
クロエ、あたしとアンタは別種の人間よ。そして、霧香とも。
どうしてアンタがソルダに忠誠を誓うのかもわからない。別種の人間だから。
「――ミレイユ。ジュース、美味しくない?」
霧香が小さな声で訊く。
「そんなことないわよ。どうして?」
「険しい顔してたから」
「そう……ちょっとね。クロエのこと考えてたの」
或いは、クロエとアンタのことを。霧香は哀しそうな顔をした。
「あの娘……悪い人じゃない」
そうよね。霧香。アンタはそう言うよね。イタリア人の情の深さと憎しみの深さを知らないアンタは。
クロエはあたしの敵よ。
「風が入ってきたわね」
カーテンがはたはたと翻る。あたしは窓を閉めた。
「クロエと友達になることはできないのかしら」
「そんなこと言うから、つけ込まれるのよ」
――例えば、あたしみたいな人間に。クロエがどこかであたし達を見張っていないとも限らない。今は気配はしないけれど。
あたしは霧香の作ったジュースを飲み干した。いつも通り美味しいはずなんだけど、味なんてわからなかった。
後書き
ミレイユとクロエの霧香を巡る三角関係?
急に書きたくなったお話です。
この話はノワールを貸してくださった風魔の杏里さんに捧げます。
2014.10.13
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