虎徹の昔話

 そう、あれは五年前になるだろうか――。
 一人娘の楓もすくすく成長して、妻とは熱々で、仕事も順調で――。
 これが幸せと言わずして何を幸せと言おうか。
「楓は日に日におまえに似て来るなぁ……器量よしで頭が良くて」
 虎徹が言うと、友恵が、
「あら。楓は優しくて勇敢なところがあなたに似てるじゃない」
 と返事する。
 順風満帆な幸せに満足して、虎徹が新聞を広げながら、ふっと笑った。表で遊んでいる楓は虎徹と友恵の宝物だった。
 その時である――
 がちゃーん!
 食器の割れる音がした。
「友恵……?」
 だいどころでは、見慣れたエプロン姿の友恵が倒れていた。
「友恵ーっ!!!!」
 友恵はすぐに近くの病院に運び込まれた。
「先生……妻は、友恵は大丈夫なんでしょうか?」
 医師は気の毒そうに見遣りながら、首を横に振った。
「先生……!」
 虎徹は泣いた。泣いて医師に縋った。
「残念ながら……助かる確率は低いかと――……もう少し早く来てくれれば……」
「ねぇ、パパ。ママどうしたの? どうしたの?」
「お願いします。先生……! 友恵が死んだら、楓だって悲しみます!」
「そうは言われてもねぇ……!」
「お願いします」
「おねがい!」
 虎徹が頭を下げるのを見た楓が、真似をして頭を下げる。だが、基本的に賢い楓だ。ただならぬ事態を察しているようだった。
「何とかしてみますけどね……時々私はこの仕事が嫌になります。奥さんが大丈夫という気休めは、私には言えません」
「そんなに、悪いんですか?」
 医師は無言で頷いた。
「ママ、助かるよね、助かるよね」
 虎徹の袖を引っ張る楓に、
「心配しなくてもいいよ」
 と、頷いてみせた。
 友恵は一旦は助かった。奇跡だ、と医者は言った。
「友恵、おまえは強いな」
 まだ入院暮らしの妻の為に、虎徹は花を活けてやった。
 友恵は微笑んだ。
「あなたと、楓の為にがんばらなくっちゃ、ね」
「おまえが無理してること……察することができたらな」
「いいのよ。それより、お仕事がんばってちょうだい」
「わかった! 思いっきり張り切ってやるよ! 楓もいることだしな」
 すぐ傍にいた楓の頭を撫でてやると、楓は面映ゆそうな顔をした。
 しかし、それが虎徹が友恵を見た最後だった。

 友恵の容体が一変したとの連絡が入ったのは、その夜だった――。

「ママ、ママ……」
 楓が虎徹と手を繋いで友恵の葬式に参加した。葬式はキリスト教式だった。虎徹はクリスチャンではなかったが。
「ねぇ、パパ。ママとはもう会えないの……?」
「ああ……一生な」
 虎徹は涙を堪えようとした。楓の為に。
 だが、一筋、堪え切れなかった涙がこぼれた。
 友恵……。
 ヒーローとしての仕事で忙しく、家族を顧みる余裕がなかったかもしれない。だから、団欒は大切にした。してきたつもりだった。
 それなのに――。
「何が……ヒーローだ」
 友恵の健康にも気を使ってやれず、大切な彼女を失った。この世で誰より大事な妻を。
(おまえがいてくれなかったら……ヒーローなんて仕事、何の意味もねぇじゃねぇか)
「パパ」
「何だい……楓」
 虎徹は無理に笑おうとして――顔の筋肉が引き攣った。
「パパはおしごとしなきゃだめなの!」
「え?」
「ママが言ってたの。パパはおしごとしなきゃダメだんだって」
 もしかして、友恵は、虎徹が仕事を辞めることまで思い詰めでもするかもしれないと思っていたのだろうか。
 だとしたら、彼女は虎徹のことを虎徹以上にわかっている。
「わかったよ。パパ、お仕事辞めないよ」
 そうだ。それに、虎徹にはレジェンドがいる。
 子供の頃から憧れていた、NEXTのレジェンドが。
 彼のようになりたくて、ヒーローになった。
 ああ、そうか。
 俺は、戦い続けなきゃ駄目なんだ。この世の悪と。
 楓と、夭逝した友恵の為に。
(見ててくれ。友恵。俺は、ヒーローとしてがんばる。おまえも、天国から見守ってくれよな)
 虎徹の心の中には、どこかふっきれたものがあった。
 けれど、楓はすぐには簡単に納得しなかった。友恵が天国にいると聞けば、自分も天国に行きたがったし、まだ天国に行けないのがわかると、
「神様、楓、おりこうにしてるから、ママを一日でいいからつれてきてください」
 と、手を組んで祈った。
 その様を見る度……虎徹はそっと涙を拭った。
 今はそのようなこともなく、明るく元気な女の子として育っているけれども、小さい頃の悲しみの思い出は澱のように心の底に残っていることだろう。
 それに、虎徹はヒーローとして忙しい。なかなか実家にも帰れない。楓にも電話越しでしか話せない。
 虎徹の母が楓の面倒を見ていることが救いだけれども――。
 今は、昔のように、
「パパはいつ帰るの?」
 と訊かなくなった。まるで、父親が帰って来ないのが当たり前のように。その通りだが。

「そうでしたか……」
 ロゼワインの入ったグラスを傾けながらバーナビーが呟いた。虎徹は言った。
「ん……なに。俺と友恵は死ぬまで繋がってたんだ。今は後悔はしてない」
「――嘘ですね」
「何で嘘だと?」
「僕は……両親のことが忘れられません」
「そりゃ、あんな悲惨な死に方目の前でされちゃさぁ……俺は一応友恵に葬式出してやれたし……」
「けれど、愛する者を失った悲しみに変わりはありません」
「……まぁな。時々思い出すこともあったし」
 けれど、昔話として話すことができるようになった。バーナビーのおかげかと、虎徹は思った。
「しかしねぇ、失ったものもあれば、大切な人に出会うこともある。まぁ、俺は友恵一筋だけど」
「だから、まだ結婚指輪をつけてるんですね」
「形見だからな。俺と友恵とを繋ぐものでもあるしな」
「そんな虎徹さんだから、僕は好きなんです」
「……ありがとな」
 家族以外には好きと言われ慣れていない虎徹だったが、頭の中の懸念のせいでさらっと流してしまった。
(友恵……俺はこれで良かったんだろうか)
 虎徹はよく、心の中で妻に問い続ける。今までも――そしてこれからも。
 虎徹の心は友恵と共にあり続ける。
「いつか友恵さんの墓参りに行ってもいいですか?」
 バーナビーが申し出た。
「そうだな。あいつも喜ぶと思う」
 虎徹も頷いた。
「でも……妬けてしまいますね。まだ友恵さんのことを想っているのでしょう?」
「まぁな。おまえも早く嫁探せ。バニ―ちゃん」
「バーナビーです!」
「ブルーローズとはどうなんだ?」
 虎徹はさっきまでの憂いを振り切るように、わざとにやりと笑ってやった。
「ブルーローズとはそんな関係ではありません」
 バーナビーは穏やかに否定した。図星をさされたとムキになるでもない。
(こりゃ本当にブルーローズとは何もねぇらしいな……)
 虎徹は思った。
 ブルーローズが虎徹を巡ってのバーナビーのライバルであることを、当の虎徹は知らない。
「おまえ、恋人いないのか?」
「好きな人なら……いますよ」
「ほう……俺の知ってる人か?」
 バーナビーは口を噤んだ。虎徹をじっと見つめてから、彼は溜息を吐いた。重くて深い溜息を。
 虎徹は黙っていた。今、話しかければ何らかの反応が得られるのではと思ったが、バーナビーにはバーナビーの悩みがあるのだろうと、それ以上は追及しなかった。

2011.10.20

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