ビッチ先生が事故に遭いました

 ――それは突然やって来た。
「皆さん、大変です。イリーナ・イェラビッチ先生が事故に遭いました」
 そう言った律の言葉に、数瞬後、教室中がざわっとなった。皆、イリーナ・イェラビッチと言う、ビッチ先生のフルネームに反応が遅れたのだ。けれど、よりにもよって――今日は烏間先生が休みの日なのに!
「ほんと?! 律」
「はい。今入った情報によりますと、ビッチ先生は竹林総合病院に搬送された模様です。尚、事故の原因は先方の飲酒運転による不注意だった様です。ビッチ先生のスピード出し過ぎもあったそうですが。――負傷者はビッチ先生一人です」
 律は普段より焦っていた。竹林総合病院――竹林君のお父さんが経営している病院か。
「何か、テレビのニュース聞いてるみてぇだな」
 吉田君が言った。
「す……すみません。大変な時に」
「いいのよ。律。吉田君の言うことは気にしないで。悪気はないんだから」
 原さんがフォローに回る。こんな時、原さんは頼れるクラスメートだ。
「は……はい」
「――皆さんは自習していてください。先生は理事長先生に会いに行きます」
 と、殺せんせー。この椚ヶ丘学園を支配しているのは、理事長の浅野先生だ。きっと、見舞いに行っていいかどうか訊くんだろう。
「僕達に出来ることはないんですか?!」
 僕が動転して立ち上がる。茅野が、
「渚……」
 と、心配そうな顔で僕を見遣る。
「……取り敢えず待機です。理事長先生の許可を得たら、先生は病院に行って来ます」
 ――殺せんせーの背中が、いつもより小さく見えた。

 理事長室から戻って来た殺せんせーによると、ビッチ先生は意識不明の重体であったそうだ。理事長にも連絡が行ったらしい。ここでの校長はあまり権限がないみたいだけど。
「E組なら、勉強なんてしてもしなくても、成績は同じでしょうと。――イリーナ先生の見舞いに行っていいそうです」
 つまり、E組の生徒は勉強しても無駄だと言いたいのか――。どうしてなんだろう。理事長は僕達を目の敵にしている。
 僕は潮田渚。椚ヶ丘中学校3-Eの生徒だ。ビッチ先生は英語担当。本業は――殺し屋。彼女を恨んでいる人も随分いるだろう。その人が事故に見せかけて――?
「今回のことは、純粋な事故だそうです」
 僕の心を読んだように、殺せんせーが言った。
「私、お見舞いに行きます!」
「私も!」
 こういう時、女子生徒は行動力が素早い。茅野が訊いて来た。
「ねぇ、渚も行くよね?」
「……勿論!」
 ビッチ先生にはお世話になっている。下ネタが多いのはともかく、授業はわかりやすいし、皆とも友達感覚で話している。年齢が近いからかな。
 けど、それだけじゃなく、ビッチ先生には、どこか危なっかしい、不安定さや弱さ脆さもまだまだ沢山ある。僕らから見てもそうなのだ。だが、その欠点が僕達を近づけた。
 烏間先生が明日休みと訊いて、ビッチ先生喜んでたな。後でこっそり、
「明日、私、カラスマに会いに行くの」
 と教えてくれた。本当に嬉しそうに。恋する乙女というか、そのまんまなんだけど。ビッチ先生はまだ二十歳なんだから。――その時は元気だったのに。
 教室中がしん、となった。
「彼女は――意識不明です。来たい人は先生について来てください。面会謝絶かもしれませんが。――残りは自習で」
 皆、病院に行く方を選んだ。
「律――留守番頼んだよ」
 クラス委員の磯貝君が律――自律思考固定砲台の本体にに向かってこう言った。
「はい。――ビッチ先生が早く良くなることを祈ってます」
 律が涙を浮かべた。こんな時の律は、つい、彼女が機械であることを忘れてしまう。
「今度はニュースみたいではないな。――悪かったよ。律」
 吉田君が謝った。
「――はい」

 僕達はビッチ先生の入院している病院まで、歩いて行った。病院には独特の臭いがする。こんなところで、ビッチ先生を死なせる訳には――いかない! 僕達は強く強くそう思った。
「烏間先生に連絡したんだけど、繋がらないの」
 倉橋さんが泣きながら言う。
「烏間先生……」
 倉橋さんは烏間先生のことが好きだ。
「倉橋さん、こんな場合だけどさ、ビッチ先生は倉橋さんのライバルじゃなかった?」
 と、女子のクラス委員の片岡さんが指摘する。
「うん……でも、ビッチ先生なら烏間先生とお似合いだから――」
「それにしても、どこにいるんだろうなぁ。烏間先生」
『どうやらスマホの電源を落としているようです』
 と、モバイルの方の律が言う。
「……充電するの忘れたんかな……。だとしても、らしくねぇミスだよなぁ……雑音が入らないように電源切ったとか? 他のヤツなら女の存在を疑うとこだけど、烏間先生だしなぁ――」
 前原君、謎を追うように真剣な顔をしてぶつぶつ呟いている。不破さん程ではないにしても、前原君も結構謎解きが好きだ。――最後は結局男女関係のもつれになるところがあれだけど。
「後で先生が電話かけますから、皆さんはあまり心配しないように」
 誰も、「はい」と言う人はいなかった。一番心配しているのは殺せんせーなんだから。
 昼が過ぎ、夕方が来ても、ビッチ先生は目覚めなかった。
「下校時間ですね。帰る人は――帰ってもらって結構です。先生はここにいます」
 殺せんせーはそう宣言した。
「先生、私達も一緒にいます!」
「僕もいます。というか、ここが僕の家族の仕事場なんで。何かあったら僕も――いや、僕が責任とらなくては」
「――俺は帰るぜ」
「寺坂君……」
「親が不審に思うといけねぇからな。それに、こんなにぞろぞろいられたら病院側だって迷惑だろ? ――何かあったら連絡寄越せよ。渚」
「うん……」
 僕は寺坂君に頷いた。寺坂君の他に数人が帰った。僕らは残った。――カルマ君も残った。今日のカルマ君は何だか大人しい。やはりカルマ君もビッチ先生の事故にショックを受けたんだろうか。
「私も帰るわ。回復、祈っているから」
 狭間さんが言う。「呪っているの間違いじゃねぇの?」などと軽口叩く生徒も、今回は、いない。
「――烏間先生に電話をかけたのですが、繋がりません」
 殺せんせーが僕達に伝える。
「やっぱりどっか出かけているんじゃないか?」
「それともトイレかな? 飯でも食いに行ってるとか……後、風呂に入っているとか、ちょっと早いけど寝てるとか……あの人も寝るのかな」
「あの先生、そんな生活感ちっともないからねぇ……」
「防衛省の仕事しているのかも」
「――あり得るな」
「もう少ししたら、先生がまたかけてみます」
「ビッチ先生……」
 茅野も泣きそうだった。それは悲しいだろう。僕だって悲しい。勉強を教えてくれた先生が死線を彷徨っているのを知るのが、こんなに悲しいとは――。
「ねぇ、烏間先生には、このこと伝えないでおこうよ」
 片岡さんが提案する。僕も、片岡さんに賛成だった。
「僕もその方がいいと思う……テレビやネットで話題になっているかもしれないし、近所でも噂になってるかもしれないけど」
 でも、烏間先生に僕のような思いはさせたくない。烏間先生も確かにビッチ先生のことが大切なのだ。一緒に仕事しているだけあって、その絆は僕達より強いかもしれない。――今日だけは、烏間先生をそっとしておきたい。ビッチ先生もそのうち目覚めるかもしれないし。
「そうですねぇ……あ、看護師さん。イリーナ先生の容態はどうですか? 少しの間だけでも病室に入ることは……」
 殺せんせーの言葉に、看護師さんは首を横に振った。そして、もう一人の看護師さんの方を向いた。
「――イリーナさんは絶対安静です……って、そうですよね。佐藤さん」
「イリーナさんの命に別状はありません。ただ――このままだと植物状態になる可能性も」
「ふぇぇ……」
 べそをかいている倉橋さんを、矢田さんが慰める。
「殺せんせー。ビッチ先生が目覚めるまで、僕達、ここにいます」
 僕の台詞は近くの看護師さん達も聞いている。殺せんせーは小さな瞳でじっと僕達を見つめた。そして言った。
「――十時までですよ。でないと親御さんに心配かけてしまいますからね」
 殺せんせーの言葉に、僕らは「はい」と返事をした。
 ――その後、ビッチ先生はめでたく意識を回復し、僕達は、何故か犬と一緒に病院に来た烏間先生と喜びを分かち合った。でも、今回一番心を痛めたのは殺せんせーだったと思う。僕達の前で不安や迷いを見せようとしなかった殺せんせーが、僕にはとても大人に見えた。

後書き
暗殺教室の二次創作。『イリーナからカラスマへ』のスピンオフ作品。
あの話の裏には、こんなにシリアスな展開があったのですね……。
普通は面会謝絶だったら帰るのかもしれませんが……ビッチ先生は皆に愛されてますね。
2017.11.24

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