イアン四十歳

「ジェルミ、電気消すぞ」
「ああ、うん。イアンももう寝る?」
「俺は――ちょっと考え事があるから一人で酒でも飲んでるよ」
「その……付き合ってあげようか?」
「そうだな――」
 ジェルミと酒を酌み交わすのも悪くない。俺達は階下へ降りた。
 ジェルミとも長い付き合いだな。俺――イアン・ローランド――はそう思う。
 ジェルミも俺もまだ十代だった頃、サンドラと俺の父グレッグが結婚して――俺はジェルミと出会った。
 初めは――俺は女のところに入り浸りでジェルミの苦悩をわかってやれなかった。そして、多分父さんの苦悩も。
 父さんはジェルミに性的虐待を加えていた。俺は――いい気になってジェルミに説教したこともある。あの時は、父さんのことを信じていたから。
 けれど、あんな酷いことを、酷いことを――。
「イアン」
 俺は我に返った。
「何だい? ジェルミ」
「あ、びっくりさせた? ごめん」
「いや――ちょっと昔のことをね……」
「昔のことは――」
「思い出したくもない、か」
 それもそうかもな。ジェルミは酷い目に遭ってきたもんな。
 でも、もう若くもなくなった俺は、父さんの気持ちもわかるんだ。年を取るごとに――父さんが亡くなった年に近付くごとに。
「ジェルミ――俺がグレッグ・ローランドに見えることはないか?」
「いや。イアンはイアンだよ」
「そうか……」
 父さんには悪いけど、少しほっとした。
 確かに、俺はグレッグ・ローランドの息子だ。でも、嫌がるジェルミをベルトで打ったりファックしたりした父さんとは違う。
 ――いや、本当に違うのだろうか。
 俺は、父さんの気持ちがわかる。ジェルミをベルトで打った気持ちもわかる。でも、それは無理矢理やってはいけないことなのだ。
 それに、俺は未だにジェルミが愛しい。ベッドの中で彼を抱くこともある。俺は今年で四十になった。このぐらいの年になると性欲も衰えるだろうかと考えたこともあったが、取り敢えず俺はその問題で頭を悩ませたことはない。むしろ、ジェルミに無理を強いているのではないかと考えてしまうぐらいで――。
 やっぱりそのことについては、昔ジェルミに言われた通り、グレッグと同じケダモノなんだろうか。――まぁいい。閑話休題だ。
「もうすぐ――クリスマスだな」
「うん」
「ジェルミ。お前の誕生日だな」
「今年も何かやるの?」
「マットやナンや子供達がいるからな」
 ――ナターシャは去年亡くなった。天寿を全うして。彼女の死に顔は穏やかだった。
「皆が集まるのはイブの日でしょう?」
「そうだな。イブの日だ。お前は二十五日が誕生日だろう? 覚えやすくていいな。イブは忙しくなるぞ。――年末の休み中は会社はマットに任せるけどな」
 ローランド商事の重役になったマットは俺よりやり手になった。意外な才能だな。だからこそ任せられる。
「こんなせわしい時にマットに文句言われない?」
「別に。給料上げろとも言われない」
「言われたらどうするの?」
「そうだな。マットは既に給料以上の働きをしてるからな。考えてみるか」
「ふふっ」
 ジェルミが笑った。そこで俺は初めてジェルミが冗談を言ったことに気が付いた。
「ジェルミ……そんな軽口が叩けるようになって良かったな」
「うん」
 ジェルミは心からの笑みを浮かべているらしい。リラックスしているようだった。
「イブは皆で騒ぐんだね」
「ああ。それから――ハムステッドへ行こう」
「そうだね……」
 ジェルミは心からくつろいでいる猫のように体を伸ばした。
 年末の遭難――俺達はあの出来事をそう呼んでいる。
 リリヤ、グレッグ、サンドラ――。
 彼らは十二月になるとやってくる亡霊達だ。でも、怖くはない。ジェルミもきっと怖いとは感じないだろう。
 彼らは浮かばれない亡霊達だ。けれど、正体はわかっている。だから、怖くない。
「酒よりも……ハチミツ入り生姜湯飲むか?」
「うん。あれ好きだ。きっと天国のパンの味だ」
 ジェルミはハチミツ入り生姜湯が殊の外お気に入りだ。自分でも作るが、俺の作ったような味にはならないと言う。それを聞いた時、俺は些か得意になった。
 作ってやるさ。お前の好きなハチミツ入り生姜湯を。お前の命のパンを。俺が生きている限り。
 俺はつい鼻歌を歌ってしまう。
 ご機嫌だな。イアン・ローランド。
 ――もう一人の俺が言う。
 ご機嫌にもなるさ。マット達はもう寝たろうし、この食堂には今、俺とジェルミの二人きり――。
 ジェルミも肉がついてきた。
 と言っても、ダブダブに太っている訳ではなく、もう三十代も終わりに近くなっているが、父を、そして俺を夢中にさせた美貌は昔のままだ。いや、少しは大人びては来たが、それはジェルミの美しさを損なわせてはいない。むしろ、ますます冴え冴えと際立たせている。
 ハチミツ入り生姜湯。俺とジェルミの二人分。
 ジェルミがふう、ふう、と熱を冷ます。そして啜る。
「美味しい」
「そりゃ良かった」
 美味しいと言われりゃ作り甲斐があるってもんだ。
「教会には行くの?」
「――イブにはな」
「ナディア達も来るんだよね」
「まぁ、そりゃな。ヨルクがいいと言えば」
 ナディアは俺の元カノで――若い時に深く愛し合っていたが、別れた。ジェルミの為に。
 それは、俺がジェルミを好きなことを俺自身が知らなかったことでこじれ――ジェルミのことでは喧嘩を何度もした。
 そこへ、今のナディアの夫、ヨルクが現れたのだ。今、彼らはハンブルグにいる。
「賑やかになるね」
「そうだな。あそこも子沢山だからな」
 この間ナディアのところに行った時には、ナディアは子供達に囲まれて笑っていた。子供達はまるで天使のようだった。ナディアは笑顔の美しい肝っ玉母さんになっていた。
(――いい人と結婚したね)
 俺がそう言うと、
(ええ。でも、子供の世話って大変。だけど、おかしいわね。最初の頃はあんなに子育てが嫌だったのに、今では子供達がいないと生きていけないわ。ヨルクは、私が聖母でなくてもちっとも構わないって。そう思うことができるようになったら何だか元気が出て来たわ。ヨルクやママや子供達と喧嘩する元気がね)
 ナディアは力こぶを作った。その時、俺とナディアは二人して笑った。私は恋愛より子育ての方に向いていたのかもね――そうナディアは話した。
 マージョリーも手伝ってくれたらしい。というか、以前はマージョリーの方がナディアの相談に乗っていたのだ。育児ノイローゼ気味だったナディアの。
 いつからだったのだろう。ナディアが幸せを感じるようになったのは。何がナディアのバラバラになった内面を統合していったのか。きっと、音楽と長い歳月と愛する者の理解が彼女の悲鳴を消してくれていったのに違いない。
 驚く程変わらないのはクレアで、ナディアは少し困っているという。孫達を猫可愛がりし過ぎると言うのだ。昔、マージョリーが子供だった頃にしたように。マージョリーも少し呆れているらしい。でも、クレアにもロレンツォがいる。
 ヨルクも変わらない。老眼が入ったとは言っていたが。ヨルクとナディアの間には音楽がある。
 ルールーの家族も来るかな。リンドンも呼ぼう。
 イブは急に大所帯になりそうだった。けれども、彼らの目的はナンや子供達に会うことだ。ナンはいい母親だ。マットは女を見る目がある。俺と違って――と言うのは、ま、冗談だけどな。俺にはジェルミがいるし、ナディアだっていい女だから。
「楽しそうだね。イアン」
「ああ――イブのこと考えてたんだよ。雪、降るといいな」
「僕は、寒いのはあまり……」
「ボストンで育ったからか? あそこも冬は寒いだろ?」
「イギリスも悪いところではないんだけどね……」
 そう言ってジェルミは沈黙を落とす。
「ここにはいい思い出もそうでない思い出も沢山あり過ぎるから……」
 そうだろうな。ジェルミはサンドラを餌に、俺の父に半ば拉致されるように連れて来られたのだからな。でも、そのことを知ったのは、父が死んでからもっとずっと後のことだった。
 ジェルミ、グレッグを殺して幸せになったかい? そう訊きたかったが、止めにした。きっと、ジェルミはその秘密の回答については墓まで持っていくつもりだろう。
 俺も生姜湯を飲んだ。ほんの少しぬるくなっていたが、それが俺には有り難かった。

後書き
萩尾望都先生の『残酷な神が支配する』に関しての作品です。
イアンももう四十代辺りかなぁと思って書きました。いろいろあってもジェルミと仲良くね!
イアンはイアンでもイアン・ヴァスティではありません(笑)。
ハチミツ入り生姜湯は私も大好物です。それにしても季節外れだな……(笑)。
2017.2.24

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