コッペリアの柩

 アルテナの死で、全ては終わったかに見えた。ノワールという存在はもうない。少なくとも、古来より伝わるノワールの存在は。
 彼女の死で何が変わるか――ミレイユ・ブーケと夕叢霧香の二人の双肩にかかっている……。

「これは、何かの始まりかもしれないわね」
 霧香が淹れてくれたお茶を飲みながら、ミレイユが独りごちた。
「……クロエが、死んだね」
 霧香がぼそっと呟いた。
「また、三人で、お茶を飲みたかったね……」
「仕方のないことだわ」
 お茶を嚥下して、ミレイユが答えた。
「美味しいわよ。霧香」
「――ありがとう」
 霧香の口元が微かに綻んだ。ミレイユが続けた。
「ねぇ、霧香。クロエは死んで本当に不幸だったのかしら」
「え……?」
「クロエの死に顔、安らかに見えたわよ。――アンタはクロエに安息をもたらした、死の大天使だったのかもね」
「やめてよ……」
 霧香が、今度は困ったように眉を寄せる。
 クロエ、そして、アルテナ。
 真のノワールを体現しようとした二人。霧香もそこに巻き込まれた。――そして、ミレイユも。
(私達は真のノワールなの? それとも……)
 ミレイユはカップの紅茶を啜った。霧香の淹れたお茶は自分の淹れたお茶より美味しい。飲む人をほっとさせる、懐かしい味だ。クロエもこれを味わって――手に入れたかったのだろうか。霧香と……。
 明らかなことはひとつある。ミレイユと霧香は、もうノワールを名乗らないと決めたこと。
 第二、第三のアルテナは出てくるかもしれない。けれど、ノワールになるには、彼女のような存在を倒さなければならないとしたら――。
 ノワールになど、ならなくていい。霧香だったらそういうかもしれない。
 あたし達は運が良かった。ミレイユは思った。
 しかし、あたし達は血を流し過ぎた。もう二度と、真っ当な社会には戻れない。裏社会でしか生きられない。
 ――ソルダのこともある。
 荘園のぶどうは、誰も手入れをする者がなくなって萎びていくだろう。荘園のそのもの自体がなくならないとも限らない。
 けれど、ミレイユは何となく勘付いている。あの荘園は、クロエとアルテナの楽園の象徴だったと。
 霧香は何も喋らない。けれど、何となくあの二人のことがわかる。不思議だ。
 クロエにとって、アルテナは親代わりだったのだろう。けれど、クロエは外の世界を知ってしまった。そして――霧香に恋をした。
 誰かの想いが流れ込んでくる。それはクロエだったのかもしれないし、アルテナのものだったのかもしれない。
 クロエはミレイユの両親をためらいもなく殺す霧香を見て目を輝かせた。霧香の圧倒的な精神力に惹かれた。
 クロエは、霧香をミレイユから奪いたかったのかもしれない。霧香の隣に自分の席はないと知って逆上した。
 マッド・ティーパーティー……。
 あたし達はあなたの駒だったのね。アルテナ。
 ミレイユは火の池で絶命したアルテナの記憶に心の中でそっと囁く。
 アルテナもまた、哀しい存在だったのだ。自分の儚さを知っているからこそ、ノワールを、神に選ばれし者を望んだ。
 そうだとしたら、神もまた、哀しい存在だ。人と同じく。
 哀しくない存在など、この世に、否、あの世にもあるのだろうか。
 全てを総べおさめるものは本当に存在しているのだろうか。
 アルテナは全てを総べおさめたかった者だったのか。それとも、彼女は神に永遠に跪く信徒か。
 クロエはアルテナの犠牲になった。それを薄々知っていたからこそ、クロエは霧香に傾倒していったのだろうか。
 アルテナ、クロエ、霧香……。
 それが、クロエの夢見たノワールの世界。なべては推測でしかないけれど。その世界には、ミレイユの席はなかった。
 クロエは、自分の夢の為にミレイユを殺そうとした。
「マッド・ティーパーティーの終焉ね……」
 ミレイユが呟く。霧香はこちらを見つめている。寂しそうに。きっと、この寂しさは一生消えることはないであろう。
「あたし達、これから日常を生きるんだわ。血と硝煙に塗れた日常を」
 霧香は哀しそうにこくんと頷いた。
「けど、あたし達が組んだら無敵よ。霧香。頼んだわよ。あたしの――相棒」
 霧香がわずかに微笑んだように思った。
「お茶、お代わりくれる?」
「ええ。ミレイユ」
 霧香は何かの儀式のようにティーポットを捧げ持った。
 明日から、何かが変わるのだろうか。クロエ、そして、アルテナ……。
「霧香、アンタ、クロエを殺した時、泣いたわね」
「え、ええ……すごく、悲しかったから。あんなに慕ってくれたのに、応えられなかったのが悲しかったから……殺してしまったことが、悲しかったから。彼女も、仲間だったのに……」
 そう。あたし達は、殺した者の未練と末期を抱えながら、生きていくしかないのだ。
 それでも耐えられる。霧香、アンタと二人なら。
「霧香――死なないでね」
「うん……」
「あたしも死なない」
 ミレイユはきっぱりと言い切った。たとえ、ソルダが相手でも。ただ、ノワールでなくなった二人をソルダが狙うかどうか謎だが……。
 いや、二人の力を恐れたソルダが闇に葬り去ろうと画策することもあり得る。ソルダは狂った宗教だ。
 黒社会をおさえる宗教……ノワールはもういらないのかもしれないが、ソルダの血は全世界にはびこっている。
 だから……不謹慎ながらもミレイユは永遠の安息に眠るクロエとアルテナをある意味羨ましく思うのだ。以前はそのミレイユをクロエは羨ましがった。
 人は、永久にないものねだりをするものなのかもしれない。だからこそ科学は発展し世界は繁栄した。もっと、行ったこともない天国へと人間社会を近づける為に。
 過去への巡礼は思いもかけない幕切れとなった。ミレイユの母オデットは、娘の未来を霧香に託した。霧香はそのことをどう思っているだろうか。
「いつだったか――全てがわかったらあたしがアンタを殺すって言ったわよね」
「うん……」
「あたしには殺せない。霧香。アンタは?」
「…………」
 苛められた仔犬のように悲しげに霧香は目を伏せる。わかっている。霧香もまた……ミレイユを殺せない。わかってて、敢えて訊きたかった。
「霧香、いろいろあったけど、あたし、アンタが好きよ」
「……私もよ、ミレイユ……」
 霧香もお茶を啜った。彼女の表情が掴めない。霧香がとても遠くに思えた。
 だけど、遠くにいるようでいて、本当は一番近いところにいる存在。
 霧香の為なら何だってできる。クロエと同じように。たとえクロエと同じ罠に嵌まったとしても……。ミレイユもカップの中身を飲んで、ほっとした。ここは、温かかった。

「テナ……アルテナ……」
「ん……」
 アルテナが目を覚ます。無明の闇の中で。クロエの声で覚醒した。
「クロエ……ここは?」
「完全なる無です。闇の中の闇。アルテナ。私達はここから生まれ出でました」
「ああ……そうだったわね……」
「ここは、落ち着きます」
 クロエは横たわったアルテナの頭部に膝枕をしてぎゅっと抱え込んだ。
「アルテナ、ずっとこうしたかった……」
「ノワールは……?」
「今しばらくは、ノワールが復活することはないでしょう。何故なら、私とあの子が真のノワールだったのだから」
「そう……だったわね。けれど、コルシカの娘が……」
「あの子のお友達など、問題ではありません。怖いのはあの子一人です。だからこそ、私は惹かれた……唯一無二の存在……」
「クロエ……」
「私は生まれ変わってまたあの子に会います。今度はあの子のお友達なんかに渡しません。それまではアルテナ、私はあなたと共にいます」
「そう……ごめんなさいね……クロエ……」
「謝らないで。前にも言いましたよね。アルテナ、あなたに愛されて幸せだったって。私は幸せだったのよ……待ちましょう。真の夜明けを。その時、私達は永遠のノワールになるのだから」
 アルテナは自分が頑是ない子供で、クロエが頼りになる母親に見えた。胎動が始まる。この世界は変わる。ノワールの名を捨てた、『真のノワール』と共に……。
 アルテナにはクロエしか見えない。もしかするとノワールと言うのは、アルテナとクロエ、己達のことでもあったのかもしれない。クロエはずっとアルテナの亜麻色の髪を透いていた。

後書き
ノワール最終回後のパラレルです。
久川綾さんが「クロエは幸せだったと思う」と言うのを聞いて、「そうか、そういう考え方もあるのか」と思いました。
生き残ったミレイユと霧香より、死んだクロエとアルテナの方が安息を迎えられたかもしれません。ミレイユと霧香はこれから、生きていく者としての業を背負わねばならないのだから。
しかし、この話のクロエはしつこいですね(笑)。
真のノワールとは……人によって解釈は違うでしょうね。
タイトルはOPからです。私もこの歌好きなので、タイトル使わせていただきました。
この話は風魔の杏里さんに捧げます。
2014.10.28


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