ドアを開けると赤司様がいました 172

「…………」
 ボールを手にしたオレは、異様な程落ち着いていた。そうだ。オレはいつもボールを触ると落ち着くんだ。ゴムの匂い――このボールは真新しい。
 ――ボールは、絶対にオレを裏切らない。
 そうさせて来たのは普段の練習だ。カントクの指導の賜物だ。赤司が相手してくれたからでもある。
 行くよ、皆――。
 オレは、深い水底に入ったような気がした。勿論錯覚だ。だけど――青峰が言ってたけど、水底の中に漂っている状態……それがゾーンなんだってこと。それを教えてくれたことがある。
 尤も、ゾーンの入り方は人それぞれらしいけど。
 オレも、キセキの皆と同じように、ゾーンに入れるかな。キセキならざるキセキ――火神大我とも同じように……。あのチート男の赤司達もゾーンの入り方は教えてくれなかたった。
 ――ゾーンの入り方を教えることが出来なかった、という方が正解かもしれない。
 だって、オレは弱くって、本当に、お話にならないくらい弱くって――。
 黒子でさえも、オレには羨ましい。
 けれど、今はオレのターンなんだ。ここはバッチリ、決めてみせる。
 ……と、気負う必要もない程オレの意識はふわふわと漂っていて……。
「行きます」
 オレの体はゆらりと揺れた。――転ぶ。
 そう思ったから、オレはバンっと強めのドリブルで転倒を防いだ。
 ――赤司達がこの場にいなかったのが残念だ。
 子供達が息を詰めているのがわかる。周りの状況が驚くほどよく掴めるのに、オレは自然に集中していた。――今のオレには、次の動きしか頭にない。
 心が凪いでいる。これで……ここでずっとバスケが出来たなら……それでいいと思える。いや、もっとこの時間が長く続いて欲しい。オレの体は軽くなる。観ててよ。征十郎に誠一郎。オレはアンタらのおかげでここまで強くなったんだ。
 一瞬、頭が白くなった。体が勝手に動いたのだ。
 オレは――今までで最高のダンクシュートを決めることが出来た。勿論、火神のようにゴールのリングを壊すことは出来なかったが、そんなこと、出来ない方がいいのだ。
 ――ん? 皆、しーんとなったぞ。
 あれれ? もしかして、オレがダンクを決めたと言うのは、オレの願望で、本当は失敗してたのか?
 大音声が体育館を包んだ。ちょっと煩い。
「すっげーーーーーっ!」
「誰だよ! 降旗なんて大したことないって言ったヤツは!」
「光樹兄ちゃん、かっこいい!」
 地味な活躍だけど、オレは、オレの仕事を無事果たせたらしい。
(お疲れ様♪)
 初めてのウィンター・カップの試合の後、カントクがそう言って労ってくれた。
 降旗光樹は、やるだけの仕事はきっちりこなす、まるで職人のようだ――そう評してくれた人がいたとかいなかったとか。ああ、だから、それが頭の中にこびりついていたんだ。今まで忘れていたことだけど。
 海から渡って来た職人――か。バスケ職人。本当にそんな存在になれるといいな。
 試合も見本を見せるだけの仕事も仕事には違いない。これってバイト代に見合いますかね。小笠原コーチ。
「サインくれ、サイン」
「サインはちょっと……オレ、字汚いし」
「汚くてもいいよ」
 サインの書き方なら、征十郎から教わったし、ま、いっか。オレはマジックと色紙で名前を大きく書いてやった。隅っこにその子の名前も記して。
 赤司はある日突然言ったものだ。
(光樹も、サインの練習をした方がいいね)
 オレは、必要ない、と言った。すると、赤司はにんまりと笑った。
(いつか、必要になる日が来るよ。今だって、そう悪い字ではないけどね)
 赤司は、ちゃんと、この日が来ることを予期していたのだ。征一郎が現れて来る前のことだけど。だから、素直に認めよう、赤司征十郎は天才だ――!
 天帝の眼、と言うもので、未来も見通せるのかもしれない。その未来に、オレもいることが出来たらいいんだけど……。
「降旗さ~ん。また動画撮ったよ~」
 ……あの子か。前にオレのダンクシュートのシーン撮った子は。確か菅原と言ったな……。
「菅原く~ん。動画撮るより実際にボール触った方が楽しいよ~」
 オレは菅原クンに声をかけてやった。菅原クンは両隣の子からつつかれてる。
「言われちまったな、菅原」――と。
 南野クンがこう言ってくれたのも嬉しかった。今日来て、本当に良かったなぁ――と。

「今から降旗さんの家に行ってもいいでしょうか」
 オレが帰る時、南野クンが言った。
 そうだなぁ……オレも南野クンに話があったし。
「じゃあ、焼き飯でもご馳走する」
「うん……もうお腹が空いちゃって……」
 あ、でも、征一郎は焼き飯の材料買って来てくれているだろうか。焼き飯は征一郎の好物でもあるんだけど。
「ちょっと待っててね」
 ――オレは、征一郎にスマホで連絡した。
「もしもし、オレだけど――」
『光樹か――何だい?』
「これから、南野クンを家に連れて行くよ」
『そうかい。こっちはもう買い物終わったから』
「それでさ……あのう……焼き飯の材料もある?」
 受話器の向こうから息が聴こえた。
『もしかしたら、僕とオマエとはテレパシーで繋がっているのかもしれないね。実は、焼き飯の材料も買って来たんだ。ご飯はもともとまだあったから。僕も光樹の作る焼き飯が食べたくなってさ』
「本当?!」
『あ、それから――黛サンから電話があったよ。今、修羅場中なんだって。だから、オレ、ちょっと昼ごはん食べたらアシスタントに行くかもしれないけど』
「うんうん」
 黛さんの作った本は大好きだ。キャラに愛がある。
『でも、あの人、いつバスケしてるんだろう……普段はやってるんだろうけど、修羅場中ならそれどころではないよな……』
「黛サンはバスケと同人両立してるんだろ? 偉いじゃん」
『まぁ、僕としては、黛サン程のプレイヤーにならバスケに専念して欲しいんだが……僕もちょっと屋外コートで練習したいんだけど、この天気じゃねぇ……仕方ないからボールいじって気を紛らわせてるよ』
「そうなんだ。まぁ、邪魔はしないよ。――後でね」
『ああ――ミニバスチームの皆に宜しく』
「もう殆ど帰っちゃったけどね」
 そう言って、オレはくすん、と笑った。
『とにかく、焼き飯楽しみにしてる』
 送り迎えしてあげようか――征十郎はそう言ってくれたけど、オレは断った。そこまで、征一郎に負担をかけさせたくはない。電話が切れた。LINEに繋ぐと、そこはメッセージの嵐だった。
『降旗、またダンク成功させたって本当か?!』
 ――これはフクからのメッセージ。
『えーい、この野郎……! オレもお前のダンク観たかったぜ!』
 これは有山からだ。見世物じゃないんだけどな……。
『おめでとう。光樹。キミのダンクは皆さんから好評をいただいてるよ』
 そうか。ツィッターやLINEでバズったんだ。体育館でのオレのダンク。でも、オレは気持ち良くプレイしていただけ――。こんなに皆から褒められると、ちょっと照れちまうな……。
 オレは、父ちゃん譲りの焦げ茶色の頭を掻いた。
「降旗さん……?」
 南野クンがオレの顔を覗き込む。
『ああ、ごめんごめん。南野クン――行こうか』
 しかし――外は生憎の雨。しまった。傘持ってくれば良かった――。
 なんてね。
 実はオレ、折り畳み傘はいつも常備してるんだよ。征十郎も征一郎も、(濡れて風邪を引いたらどうする、持っていけ)ってうるさいんだもん。でも、今回は感謝だな。あの二人には。
 征十郎と征一郎、少し過保護っぽいところはあるけどね。きっとオレがペットみたいに見えて仕方ないんだろう。
「あ、オレも傘持って来ました」
 そう言って南野クンは青い折り畳み傘を出す。用意周到だな。南野クンも。まぁ、この少年はいつでもしっかりしてるから――。
 オレは大学生だというのにちょっと頼りなく見えるかもしれないけど。
 オレ達はバスケの話をしながら、アパートの部屋へ向かった。
 一応、チャイムを押す。征一郎が何をしているかわからないから。一応、連絡はしておいたから、大丈夫だとは思うけど。征一郎も何か用意してくれているかもしれないし。
 ――ただの期待じゃなくて、征一郎は本当にオレ達がびっくりしそうなことをして来ないかどうかわかったもんじゃないから――。
 征一郎はすぐに出た。
「やぁ、光樹に南野クン」

後書き
ゾーンに入った降旗クン。
この後どうなっていくのか、私も楽しみです。
2020.08.17

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