ドアを開けると赤司様がいました 135

「何を言う。こんなに真っ青じゃないか。オレの部屋で休もう。――な?」
 うーん、それもいいかもしれないけど……征十郎が襲って来てもオレがしっかり断ればいいんだし、オレが「抱いてもいい」と言うまで、征十郎は紳士だった。――征一郎の視線が痛い。
「征十郎。僕も連れて行くよ」
「ああ、君はまだ残っていてくれ。征一郎君。元はと言えば、君に関することなんだから」
 矢沢サンの言葉に、征一郎が舌打ちをした――ような気がした。
「じゃ、行こうか。光樹」
「う……うん……」
 嬉しそうな征十郎にオレは頷いた。
 ――征十郎の部屋もいい匂いがする。人を惹き付ける匂いは征十郎の匂いに似ている。赤司家はいい匂いするもんな。――匂いって、家それぞれで違う。当たり前のことだが。オレの実家もまた違う匂いだし。
 オレ達が住んでいるアパートでもそれなりに生活感のある匂いがしたのものだ。あそこの部屋のは何だか懐かしい匂いだ。青峰もいい匂いと言ってくれた。恐らく、赤司家とは別種の匂いであったとしても。
 征十郎の部屋。沢山の本に立派な机。広いベッド。
 オレは何だか慣れないのだが、征十郎は慣れているんだろう。自分の部屋だもん。
 ――征十郎はいいとこの坊ちゃんなのに、オレと暮らしたことで身を落としたとは考えないのかな?
 あれ?
 征十郎の部屋の棚には原書が多い。流石は赤司征十郎の部屋だと思う。
 一冊の本にオレは目を止めた。
「モモ……? ミヒャエル・エンデ?」
「そうだよ。この話は読んだことあるかい?」
「小学校の頃に」
 確か図書室で読んだんだ。日本語訳だったけど。なかなか面白かった。だけど――。
「これは子供が読む本じゃないか」
「違うね、光樹」
 征十郎がオレの目の前で人差し指を振った。
「児童文学も立派な文学だよ。あの小泉今日子さんもこの物語が好きだと言っていた」
「小泉今日子……ファンなの?」
 確か昔はキョンキョンと呼ばれていたアイドルだ。オレは――『あまちゃん』を見て知ったけれど、なかなか綺麗な女性だ。
「小泉今日子はオレは好きだよ。頭いいし、優しい人じゃないか」
「うん、そうだね……」
 オレは生返事をしながら本を開く。――やはり読めない。
「日本語訳があるから貸してあげるよ」
「うん……ありがと。昔読んで面白かった記憶があるから」
「モモはオレも好きだよ。河合隼雄も『モモ』に関する文章を書いていた」
「河合隼雄?」
「有名な心理学者さ。もう亡くなってしまったけどね――河合隼雄に関する説明、君にしたことないかい?」
「え? 覚えがないけど……」
「じゃあ、オレの記憶違いだったかもね……」
 オレは本をぱたんと閉じた。――征十郎が顔を近づける。
「ん……ん……」
「君の唇の味は好きだ。……このぐらいなら、征一郎も見逃してくれるだろう。――征一郎は独占欲が激しいけれどね。そんなところはオレも嫌いじゃない。それに――オレも光樹のおかげで自分の独占欲に気付いたよ」
 そう言って征十郎は本棚から日本語訳の『モモ』を取り出す。
「読んだら感想聞かせてくれるかい?」
「うん……」
 オレはぽーっとなっていた。征十郎の匂いに酔ったみたいだ。征一郎は――気付くかな。気付かないといいな。二人の喧嘩は、もう見たくない。
「大丈夫だよ、光樹」
 征十郎がオレの肩に手を置いた。
「オレと征一郎が喧嘩するのはその……慣れ合いみたいなものだから」
「そっか……」
 オレは上の空で返事をした。征十郎はオレの心を読んだのだろう。彼は自分のベッドにオレを寝かせてくれた。オレはぽーっとなったまま……眠りについた。征十郎の――そして洗い立ての匂いのするベッドで。

 気が付くと、もう夕方になっていた。部屋には誰もいなかった。
 ――征十郎も気を使ってくれたんだろうな……。
 そういえば、オレはもう、あの二人のことを征十郎、征一郎と呼ぶのが当たり前になって来ている。頭の中でも。前は俺司、僕司と呼んでたのに……。
 まぁ、征一郎という名前はオレがつけたようなものだからな……。
 そんなことを考えていると、トントントン、とノックがした。
 征十郎かな。自分の部屋なんだからノックの必要なんかないと思うのに……。それとも、オレに対して遠慮してくれてるんだろうか。
 果たして、ノックの主は征十郎だった。征一郎もいる。
「光樹。帰るよ」
「――うん、わかった」
 相変わらずぽーっとして、まだ眠い。この家で、この部屋で眠れるということは、オレがこの家に馴染んで来たということか。それとも――この部屋には征十郎のにおい、というか、存在の証があるからだろうか。
「この本は君にあげるよ」
「何だい?」
 征一郎が顔を突き出す。
「ミヒャエル・エンデの『モモ』だよ。キミも好きだったろう?」
「――ああ」
 征一郎の表情が緩む。
「光樹。僕は幼い頃、悪いヤツらに攫われていろいろあってやくざに育てられたことになってるんだ」
「お前はヤクザに育てられたように見えないけど?」
「インテリやくざなんだ」
 ――なるほど。
「でも、やくざは逃げてしまい、置いていかれた僕は、これもまたいろいろあって征十郎と光樹に出会うんだ」
 ――何だかいろいろのところが気になるな……。
「細かいところは矢沢サンとでも打ち合わせするさ」
「そうか……あ、顧問の先生に電話するの忘れてた。ちょっといいかな」
「いいよ」
 征十郎が言ってくれたので、オレはスマホを取り出して先生を呼び出した。
「あ、もしもし、宮園先生? 降旗です――」
『降旗クン? 今日はまたどうしたんだい……』
「征一郎の大事な話で赤司家に行ってました」
『そうかい。キミがいなくて寂しかったよ。ただでさえ土日はバイトで会えないのに……キミの練習風景を見たいという少年達が来て困ったよ。今日は来ないかもしれないと言っておいたから――』
「――オレに?」
『そう。早速ファンがついたね。キミに。いないとわかるとがっかりしてたようだった』
「そんな……オレはそんな大したもんじゃないスよ」
『キミは相変わらず自分を過小評価してるねぇ……まぁいいや。明日は来れるかい?』
「行きたいけど、どうなるんだか――」
『……まぁ、あまり無理強いは出来ないけれどね。今日来てくれてもいいんだけど……』
「今、行きます」
 ここからなら大学は遠くない。
『けど……何だか疲れているようだね』
「ああ、これは――さっきまで寝てて……」
 そこで、オレは欠伸が出そうになった。
『いや、やっぱり無理はしない方がいい。オレはキミに会いたかったんだけど――』
 宮園先生の心遣いは有り難い。けれど――。ここはカントクなら「今すぐ来なさい!」と言うところだ。
「風邪でもないですし――」
『そうかい。まぁ、キミの自主性に任せるよ。確かに毎日トレーニングしてないと腕がなまるからね』
「うん……じゃなかった、はい……」
『そんなに畏まらなくていいよ。じゃあ、また』
「また……」
 オレはスマホの電話を切った。
「何だって? 顧問の先生」
「オレのファンの子が――大学に来たそうだよ。それからオレ、これから大学に行って来るから。――帰るのは少し遅くなるかもしれない」

後書き
降旗クンにファンの子? それは一体……。
今回は『モモ』ついて語ることが出来て楽しかったです。中身には触れませんでしたが。確か時間泥棒との戦いの話なんですよね。
2020.04.18

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