ドアを開けると赤司様がいました 108

 ――しばらくすると、気が済んだのか、征十郎の舌がオレから離れた。
「あの、坊ちゃま……?」
「ムニエルだね。勿論頼むよ」
「かしこまりました!」
 岡さんは慌てて出て行った。征十郎はオレの肩をぽんぽんと叩いた。大丈夫だよ――そう言いたげに。台所からは相変わらずいい匂いが漂って来る。ひゃああ、と、岡さんの声が聞こえる。
「あのシェフは善人だよ。オレのことも幼い時から知っている」
「あ、ああ……」
 本当は、『それどころじゃなーい!』と、叫んでしまいたい衝動に駆られるけれども、オレも嫌ではなかったから――。
「どうしたいんだい? 岡さん」
「コンロの火を消すの忘れてた……済みません。坊ちゃま……」
「あの人は基本的に腕はいいんだが、たまに失敗するのが玉に瑕だな。おっちょこちょいなんだろうな」
 征十郎がオレに説明をする。
「坊ちゃま~。そりゃないでしょ~」
 ――征十郎の台詞が聞こえていたらしい。征十郎はスルーした。
「あ、でも、オレ達への料理は確か重箱に詰めて……」
「ああ。重箱と一緒にやって来たのが、岡さん」
 ――オレはもう、何を言っても無駄だと思った。これじゃ岡さんは出張コックではないか。金持ちの主人の命令聞くのも大変だなぁ……。でも、台所からは調子っぱずれの鼻歌が届いてくる。
「そうだ。岡さんは音痴だった。……これだけは彼には言うなよ」
 そりゃ、当然だろう。音痴だって言われたら、誰だって面白くないもんな。流石征十郎。ツボはちゃんと心得ている。
「言わないよ……」
 岡さんはいい男だし、洒落も多分、ちゃんとわかってる。音痴なのは……まぁ、人間ひとつぐらい欠点がある方がいいだろう。二人の赤司も常識外れだし。――あ、岡さんにはおっちょこっちょいという欠点もあるのか。
「坊ちゃま~、出来ましたよ~」
「おお、仕事が早いじゃないか。どれどれ」
 机の上に所狭しと並んだ料理。思わず食欲が溢れそうになる匂い。――早く食べたいけど、征一郎が来るまで、我慢我慢。
 征十郎がスマホを取り出す。
「あ、征一郎? うん。晩餐の準備は整ったよ。今から帰って来れるかい? ――そうかい。今帰るところなんだね? え? 何? オレが光樹に変なことしてないかって? する訳ないだろう」
 こいつ、しゃあしゃあと……岡さんも、
「坊ちゃま……」
 と、苦笑交じりに呟いている。
「うん、うん……それじゃ」
 征十郎が電話を切った。そして、笑顔でこう告げた。
「もうすぐ帰って来るそうだよ」
 オレはそれを聞いて、傍にいた岡さんとハイタッチをした。征十郎がくすくす笑う。
 ――今日こそはちゃんと征一郎が来たお祝いが出来そうだ。岡さんは、シェフとしての仕事があると言って帰って行った。岡さんがいつか赤司家を首にならないか、少々心配ではある。
「征十郎。今の岡さん……」
「んー?」
「赤司家でちゃんとやっていけてんの?」
「まぁ、一応はね。あの人は我が家で一番味にうるさい人だよ。あの人の舌は確かだ。父様だって彼には一目置いてる」
「へぇ……意外……」
 岡さんには失礼な言葉だけどな。岡さんはまだ若そうだし。
「それより、もうすぐ征一郎が来るんじゃないか?」
「……そうだね。前もって知らせてくれれば、クラッカーのひとつでも用意したのに……」
「そう思って、ほら」
 征十郎がクラッカーセットを差し出す。オレ達はにんまりと笑った。電気は消そう。そうれ!
「ただいま……」
 パン! パパーン!
 征一郎の、靴を揃えようとする手が止まる。だが、それから得意げにこう言った。
「僕を驚かすつもりだったんだろうが、僕はエンペラー・アイでちゃんとお見通しだったぞ。僕を出し抜こうったって、そうはいかないんだからな」
「そうか……じゃ、オレ達は散らかったの片付けようね」
「うん」
 まだ火薬の臭いが残っている。征一郎が、優しい目をしてこちらを見ているような気がする。……気のせいだろうか。昔はあんなに怖かった男なのに……今は、そんなに怖くないや。
「征一郎。岡さんがご馳走作ってくれたよ」
「知っている」
 征十郎の言葉に、征一郎が簡潔に答えた。
「そう。ならいいや」
 ――征十郎も笑っているみたいだ。二人とも仲良しで良かったなぁ。時々言い合いもするけれども。征一郎も本当は優しいヤツなんだ。
「……征十郎」
 征一郎が硬い声を出す。なんだなんだ? せっかく仲良しでいてくれたとばかり思っていたのに。
「何だい?」
 ほうきでゴミを掃きながら、征十郎はいつもと同じように受け答えをしていた。
「お前、光樹にキスしていただろう。――光樹も抵抗しなかったな」
 ……ああ、エンペラー・アイか……。でも、こんな風に見張られてんのは、ちょっとやだなぁ……。
「ああ。オレ達は恋人同士だからね」
 征十郎は我関せず。流石は征十郎。こんな時にも動じないなんて。
「光樹……やっぱりお前も征十郎の方がいいのか?」
「え……?」
 征一郎の質問にオレは固まる。だって、オレ、征十郎も征一郎も好きだし……こんなこと言ったら怒られるかな……。征一郎はふっと笑った。
「済まない。光樹。お前を困らせるつもりはなかった」
「それよりも、心を読んで来るのをやめて欲しいんだけど……」
「そうか……でも、好きになった人のことは全部知りたいのが、男の性(さが)ってものだろう? いや、女でもそうかもわからないけどな……」
 征一郎……その気持ちは何となくわかる気がする。オレだって、恋したことがなかった訳じゃない。少しでも多く、好きな人の情報を得たいというのは、悪いことではない。
 ただ、その為にエンペラー・アイを使われるのはどうもね……。
「手伝おうか?」
「いや、もうすぐ終わる。――今日はお祝いだよ。征一郎」
 征十郎が言う。そうだね。こんなに沢山のご馳走、岡さんに作ってもらったんだもんね。
 オレ達は席に着く。そして「いただきます」と言って食べ始める。
「……岡さんの料理はやっぱり旨い……」
 征一郎がゆっくり噛み締めながら味わう。料理は本当に素晴らしく美味しい。――征臣サンに気に入られるだけのことはある。
「美味しいかい? 光樹……」
 征十郎が訊く。んなもん、決まってるじゃないか。
「美味しいよ。せい……いっ!」
「また舌を噛んだのかい?」
「いや、噛みそうにはなったけど……」
「ゆっくり言ってごらん。征十郎――と」
「せ、せい、じゅう、ろう……」
 オレがそう言うと、征十郎がにっこりする。
「はい、よく出来ました」
 ――オレは大学生のはずだよな。それなのに、何だ? この、『あんよは上手』感は。オレは子供か? 生まれたての赤ん坊か? 征一郎が興味津々でこちらを見ている。
「ゆっくり喋っていいんだよ。……お前は僕達に緊張してるのかもしれないけど」
 緊張なんて……今更なはずだったのに……。お前のせいもあるんだぞ。征一郎。自分で名付けておいて、その名前を満足に呼べないオレもかっこ悪いし、情けないけどさ――。
「光樹……やっぱり僕のことはまだ怖いかい?」
 いささか悄然として、征一郎が訊く。
「うん、まぁ……その……ごめん……でも、嫌いな訳じゃないから……」
 かえって、好きになってしまったからこそ、こんなにも、悩んでしまっているんだ……。征十郎も征一郎も、いい男だよ――。オレなんかとは、釣り合わないよ。どうして、二人の赤司はこんなオレのことを好きになってくれるんだろう……。
「ご馳走様」
「光樹。まだ残ってるよ」
 ――征十郎が目を見開く。
「いいんだ……残りはお前らが食べてくれよ……」
「光樹の分は残しておくよ」
 オレはバスルームで泣いた。征一郎には効かないかもしれないが、征十郎は勝手に人の心を読まないので、オレの好きにさせてくれるだろう。オレは何で泣いているんだろう……。……二人の赤司があんまり優し過ぎるから……。

後書き
岡さんの性格のモデルは私です。音痴なところも(笑)。
しかし、岡さんは災難でしたかねぇ……。征十郎さんと降旗クンのラブラブなところを見せつけられて。
2020.01.25

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