おお振り小説『梓と呼ばないで』

「花井ー!! おーい!!」
 開いてる窓から田島が呼んでる。けど無視。オレは今、本読んでるんだからな。
 田島のクラスはインフルエンザで学級閉鎖で、オレ達は自習。田島はオレに絡んで暇をつぶすつもりらしい。
「花井ー!! 返事しろー!!」
「…………」
「……梓ー」
 田島が囁くように言う。
 オレはガタンっと席を立った。クラスメートどもがこっちを見ている。
「あ、ようやく気がついた」
「~~~~あのなぁ、その『梓』ってのはやめろって言ってるだろ!」
 やめない奴もいるけどな。少数派だけど。
「梓くーん」
 男子の声がした。誰だか見当はつくけど、武士の情けで敢えて名前は出さない。
 代わりにオレはそいつの方をぎろりと睨んだ。
「ひっ!」
 相手はオレの眼力にびびったようだった。あいつはもう二度とオレのことを『梓』と呼ばないだろう。
「何でー。梓だめ?」
 梓じゃねぇ梓じゃ……。
 梓と呼ぶんじゃねぇ。
 小学生の頃から『花井梓』と自己紹介をする度に失笑があがった程だ。
 オレにとって、この名前は唯一のコンプレックスだ。
 オフクロがオレにつけた名だ。何故つけたオフクロ!
 もう、田島のヤツをシメてやるしかないな! 今日こそ!
 オレは本気だ。田島は嫌いではないが。
「花井ー。悪かったよ。オレ、もう梓って呼ばないから」
「……ほんとか?」
「ほんとほんと」
 田島はにかっと笑った。
 ああ、だからこいつは憎めない……。
 オレは力が抜けて行った。
「……今度梓って呼んだら、ウメボシやってやるからな!」
「えー?! ウメボシって言ったら阿部のセンバイトッキョじゃねぇか」
「ほー。いっぱしに『専売特許』と来たか」
「でも、オレ、ウメボシってやられてみてぇ。阿部も三橋も楽しそうなんだもん」
 楽しそう……?
 こいつの神経がわからん。
「おまえ、もしかしてマゾか?」
「違うよー。オレ、大家族だから打たれ強いんだ。ぶたれ慣れてるもん」
 そうか。こいつの天真爛漫さは家族に愛されているところから来てんだ。
「ま、ウメボシのことは冗談だけどさ」
 やられてみたいヤツなんているわけないだろ。
「おまえ、いい名前つけられたのに、どうしてそう嫌がるんだよ」
「女みてぇだからだよ」
「あいつは『梓』って呼んでるよ」
 田島は、いやにオレに懐いている女の名前を出した。
「やめてくれって言ってもやめねぇんだからよ、仕方ねぇだろ」
「ふうん。でも勇気あるよな。あの子。女は強ぇよな」
「まぁな――やめてくれるとありがたいんだけどな」
「殴ったりしないのか?」
「アホ。女殴れるか」
「――花井ってフェミニスト?」
「自分じゃわかんねぇよ」
 でも、多分そうかなぁ。
 モモカンみたいな、見た目は美女、中身は男っていうヤツにも惹かれるけどな。
 あ、これは内緒な。
「でも、花井って女に優しいもんな。三橋のかーちゃんにも優しかったし」
「三橋のおばさんには世話になったからだろ」
「でも、三橋のかーちゃんに対する時は顔が違ってたぜ。もしかして――」
 そこで田島がにんまりと笑って間を取った。そして続けた。
「花井って三橋のかーちゃんが好きなの?」
 さすがのオレもこいつには噴いた。唾が気管に入って噎せた。
「大丈夫かー? 花井ー?」
「お……おまえなぁ……」
「んなにウケるとは思わなかったんだよ」
「ウケてねぇっての」
 オレはまた噎せた。
「……梓くーん?」
 こいつ……舌の根の乾かないうちに……。
「てめ殺す、マジ殺す」
「わりかったって。冗談冗談」
「冗談ですめば警察とモモカンはいらねぇよ」
 オレは我ながらかすれた声になった。
「ちょっと待って。よっと」
 田島は窓から教室に入り込んだ。
 ちょっ、おまっ、それ土足じゃ……!
 田島はそれには頓着せず、すたすたと教室を横切る。そして廊下へ出て行った。
 クラスメートどもは一斉におしゃべりをし始めた。
 何する気なんだ、田島のヤツ。
 しかし、あいつのすることに意味なんか求めたって無駄なこと。そう思ってオレはまた本を読む。
 しばらくしてあいつは戻ってきた。手には紅茶のカップ。
「はい。ハーブティー。保健室からもらってきたぜ」
 オレの為にわざわざ……?
「保健室で『喉に効く薬ないかー』って言ったらさ、ちょうど先生がいていれてくれた」
 保健室か……あそこは治外法権だもんな。
「喉気をつけろよー。花井ー」
 オマエのせいだろがよ。
 でも、田島の心遣いがオレには嬉しかった。
 誰かに何かをしてもらえるのって、久しぶりだな。いつもだとオレが何かやる方だもんな。
 困ってるヤツ見るとほっとけない性分なんだ。因果なことに。
 ああ、だから三橋のことも見放すことできないんだな。あいつはあいつなりに一生懸命だから。
 それに、あいつには阿部がついてるし。阿部はあいつにマジだし。
 恋愛関係でさえなけりゃ、あいつらは理想のバッテリーだし。
 オレは、ハーブティーを吹いて冷ました。そして一口飲む。
「うめ……」
 お茶の温かさが体が包み込んでいくような気がした。
 田島が穏やかな顔をしている。
 オレがそっちの方を向くと田島は嬉しそうに、またにかっと笑った。
 わかったよ。降参だ。田島悠一郎。
 おまえには梓って呼ぶこと許してやるよ。――ま、数十年後にオレがジジイになって、名前に対するコンプレックスもどっかに置き忘れた頃にはな。
 だから、それまでは梓と呼ばないで。

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