浅野家の食卓

「そこの塩とってくれないか」
「はい」
 それは、普通の食卓の風景。だが、今までの私達にはなかった風景だ。朝餉の香りが食欲をそそる。
「母さんの料理は美味しいね」
「――まあね」
 息子の学秀が言う。
「母さんはハゲの家系であることを除けば、完璧な人だから」
「…………」
 息子の痛いところをついたかな。学秀の髪の質は母さん譲りだ。
「何ですって?! あなた!」
「おっと、聞いてたのか母さん」
 息子がくすくすと笑い出す。ここ何年かは味わったことのない、楽しい朝餉だ。
「ごめんよ。母さん。母さんの弟さんの髪が薄くなったとしても、私は痛痒を感じないものだから」
「確かに薄くなりましたね。叔父さんの髪」
 学秀が言う。
 私は浅野學峯という名だが、下の名前を呼び捨てにする者は滅多にいない。私は息子のことも学校では『浅野君』と呼ぶ。けじめをつける為に。
 学秀がずっとこっちを見ている。
「父さん――雰囲気が変わりましたね」
「……何のことだい?」
「池田陸翔」
 その言葉で、私のこめかみはぴくっとなった。
「どこでその名を……」
「ずっと前から知ってました。当時は結構有名な話だったそうだから。父さんがもみ消したんですよね。隠蔽工作だとずっと思ってたけど――今は、違う気がする」
「どう違うんだい?」
「父さんは――ずっとその人のことで悔いていたんじゃないかと……」
「……時間だね。学校に遅れるよ」
「話したくないなら話さなくていいです。ただ、いずれは真相を教えてくれると嬉しいです。――行ってきます」
 学秀は平らげた皿を片付けて家を出て行った。
「今まで、朝ごはんの片付けなんかしなかったくせに……」
 学秀も明らかに変わった。
「ふふ、私もあなたが変わったって思うわよ。そうね――私の好きだったあなたに」
「ほう……」
「私はね……もし一年待ってみてあなたが変わらないようだったら離婚しようと思ってたの」
 妻の言葉に私は目を瞠った。
「それは……初耳だな」
「そうでしょうね。あなたは私の言うことにも学秀の言うことにも耳を傾けようとしないから――」
「君と会ったのは、私がまだ私塾をしていた頃だね」
「そうそう」
「私が変わったというなら――ライバルのおかげかな」
「ライバル?」
「そう――これがおかしくってねぇ……タコみたいな頭と体で……えー、おほん」
「そう言っちゃ悪いわよ……」
「いや、本人は気にしていない。これが何というか、生徒達を巧みに操り――違うな。生徒達の為に自分を巧みに操っててねぇ……まぁ、それ以上は極秘事項だ」
「……わかったわ。学秀が聞かないというなら、私も聞かない」
「そのライバルが――私の志を受け継いでくれたら嬉しいんだけどね……フラれてしまったよ」
「あなた、本命にはいつもフラれてるものね」
「私は母さんが本命だよ」
「いえ――あなたの本命は生徒達よ」
 その時頭に浮かんだのは、自由に遊び回る生徒達の姿。
「雪村先生や私のライバルの先生に下を支えてもらえると有り難いんだけどねぇ……」
「あらあら。学秀の存在は無視ですか? あの子は将来先生になりたいと言ってましたよ」
「……あの子に務まるかねぇ。学校の先生はハードだよ」
「あなた、息子には厳しいのねぇ」
「当然。今のままでは私のライバルの先生どころか私ですら越えられない。でも、私も成長するからね。息子が成長した分、私ももっと成長するさ」
「あなた……」
 妻が涙にむせび泣いた。
「どこのどなたなの? あなたのライバルの先生って」
「――これ以上は機密事項なんだ。済まないね」
「私、お礼が言いたい。本来のあなたを取り戻してくださってありがとうって」
「――伝えておくよ」
「それから、学秀がね――池田君のことを知ってしまったのは、わかるわよね」
「ああ、さっき言ってたからな」
「あなたは失敗だったと言ってたけど――全然失敗ではなかった。あの子は命を賭して、あなたに足りないものを教えてくれたのよ。でも、あなたは間違った方へ行ってしまった」
「おいおい。私の教育は完璧だよ」
「あなたにとってはね――でもE組の担任には、必ず優秀な先生をつけてたでしょう?」
「――そうだったかな」
 妻は、私の思っていたより、私のことを見ている。今年のE組の生徒は、ちっともENDのE組ではなかった。
 雪村先生はいい先生だった。亡くなられたのが惜しい。
「……確かに、本命にはフラれてばかりいるね。しかも、最悪な形で」
 妻が笑った。
「どうしたんだい?」
「いえ――こんな時でも、あなたは教育のことしか考えてないのね。そんなところ、好きよ」
「……君も私の教え子のようなものだったね」
「ええ。昔、『浅野先生』に憧れてたのよね。――優しくて強い、あなたに」
「……私は弱いよ。気づかされたんだ。殺せんせーに」
「殺せんせー?」
「……今のは独り言だ。忘れてくれ」
「……わかったわ」
「けれど、E組のおかげで、私は間違ってなかったと自信を持って言えるようになったよ。学秀から聞いたところによるとね、E組の竹林君が、『怖がっているだけだと思うけどね、君も皆も』と言ったらしい。確かに、私は負けるのが怖かった。勝ち進んできただけ余計にね。そして、その方法しか信じられなくなったんだよ」
「あなた……」
「けれど、無意識は騙せないな。たましいに嘘はつけない。椚ヶ丘私塾の子供達が、私に真実を教えてくれたよ。――何より、池田君にね」
「池田君……?」
「ああ、訳は話せないけれど、池田君が、私の脳裏に現れたんだよ。『途中で投げ出すのなしだかんな』と言ってたよ。自分は命を投げ出したのにね」
「…………」
 妻が――涙目になっている。
「それはあなたを励ます為に、あの世からエールを送ってくれたのよ」
「そうだね。――池田君は、本当に優しくて、良い子だったよ」
「けれど、教育は少人数では限界があるわ」
「――私のライバルの先生もそんなようなことを言っていたよ。纏まった人数の教育はやはり必要なのかもしれないね」
「何だか、今年のE組の生徒達は普通じゃないって聞いてたけれど――悪い意味じゃないのよ。でも、優秀過ぎるって」
 それはきっと殺せんせーのおかげか。
「――ああ、敵ながら天晴だね」
「その先生の続投は出来ないの?」
「ああ――その先生も訳ありでね」
「学秀はね、優しさも強さもないと後で困るって。だから、優しく、強くあるよう、皆を導いていくって」
「――導いているつもりが、導かれているのかもしれないよ。この私のように」
「学秀もそれはわかっていると思うわ。あなたに似て偉そうだけれど」
「敗北を知って、大きくはなったと思うが、私にしてみればまだまだ未熟な生徒だよ。ペナルティとして、私の息子として育てていくことにした。あの子はまだ十五歳なんだし、焦ることはない」
「はいはい。私にも手伝わせてくださいね」
 ――これが浅野家の食卓。いつものようでいつもの食卓ではない食卓。――さぁ、出勤だ。今日の学校ではどんなことが起こるやら。

後書き
暗殺教室の二次創作。浅野學峯様も、学秀くんも好きよ。
學峯さんは殺せんせーのことは秘密にしておきたかったようだけどね。
裏設定では學峯さんは浅野塾に先生になった渚をスカウトしたいみたいだけど果たして……?
それから学秀くんに一言。ハゲの遺伝子は母方から受け継がれるらしいよ。
2017.12.14

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