アリババとサブマド

 アリババ・サルージャがバルバッド宮殿に連れられて来たのは、彼がまだ子供の頃だった。
 帝王学の勉強、王宮剣術、言語学まで、アリババは水を吸収するスポンジのように身につけて行った。
 特に、失礼ながら近視眼的な者の多いバルバッドで、アリババの視野の広さは群を抜いていた。
 彼はいい王になる――彼を知る人はみなそう感じた。現在の王でさえ。
 だが、王位は彼の兄、アブマドの手に渡るとほぼ決まっていた。
 アリババは王位に執着しなかった。――アブマドと違って。

 ノックの音がした。アリババは本を読んでいたところだった。彼は冒険譚が好きであった。
 後にシンドバッドの書いた本も読むようになる。その時は、まさかシンドバッドと会うことになるだろうことは夢にも思わなかった。
 それはさておき。
「開いてるよ」
 ドアの外はしーんとなった。
(誰だろ……?)
 アリババはドアを開けた。見たことのない人だった。
 手足が体ががくがくと震えている。顔を見ようともしない。
「どなた?」
「あ……アリババだね……?」
「そうだけど?」
「僕はサブマド……」
「サブマド?」
 そういえば、俺にはアブマドの他に兄がいるって聞いたことがあるな――。確かサブマドとか。もしかして……。
「サブマド……兄さん?」
 サブマドは俯いた顔を上げた。その表情は歓喜に満ちていた。
「そうだよ! サブマド・サル―ジャだよ! 君の兄でアブマド兄さんの弟の!」
「へぇっ!」
 アリババは素直に喜んだ。
 何といっても血縁である。臆病者で滅多に人と会うことはないと聞かされていたが、悪い人ではなさそうであった。
(この人が、俺の兄さん……!)
「アリババ……会いたかったよ……」
「俺もだよ! サブマド兄さん!」
 二人は互いに抱擁し合った。
「アリババ……君に話があって来たんだ」
「そうなんだ。どんな?」
「この国の王になってくれないか」
「え、でも……」
 第一王位継承者はアブマド・サル―ジャと決まっている。
「僕はね、アリババ。君の評判を聞いている。君の評判はすこぶるいい」
「いや、そんな……俺、大したことしてないっすよ」
「父上も君には期待してるんだ。多分、君に王位を明け渡そうと思っているよ」
「サブマド兄さん……」
「僕も同じことを考えている。――アブマド兄さんは王の器じゃない」
 サブマドは臆病そうでいて結構言うことは過激だな、とアリババは思った。
 確かにアブマドは王の器ではないかもしれない。しかし――。
「あがって。今の台詞、誰かに聞かれたらサブマド兄さんが危ない」
「アリババ……」
 サブマドは、おおお、と泣いた。
「その気遣いがあるから、君は、君は――」
「とにかく入って」
 アリババはサブマドを部屋に招じ入れた。
「どうぞ。酒はないけど……」
「ありがとう。実は僕は下戸なんだ」
 そう言って、ふるふる震える手で杯を持った。
「うん。美味しい」
「良かった。ジ―ザが持ってきてくれた葡萄の果汁だよ」
「ここには慣れたかい?」
「うん。みんな親切だしね」
 アリババは順応性が高い。みんな、アリババの為には何かがしたくなるようである。
 素直で頭が良くて強い――アリババはスラム出身であったが、彼を王に推す声も大きい。……アリババはそこまではまだよく知らなかったが。
 けれど、アブマドはそんなアリババを『スラムのゴミ』呼ばわりして憚らなかった。彼の取り巻き達も。
 それは確かに面白くないことだけれど、娼婦であったが優しかった母親を誇りにしているアリババにとっては毛ほどのダメージも感じなかった。
「アリババは人望があるんだってねぇ」
「いやぁ……」
 アリババはサブマドに褒められたのが嬉しかった。
(サブマド兄さん……ちょっと気が弱そうだけど、優しいんだな)
「将来は僕や兄さんの代わりにこの国を治めてくれないか?」
「サブマド兄さんじゃ駄目なのかい?」
「僕は……僕も王の器じゃないから……」
「でも、サブマド兄さんは優しい人だよ」
「……ありがとう」
 ああ。この人は本気でバルバッドの国の内情を憂えているのだな――。
 アリババは思った。
 確かにアブマドは我儘でしかも贅沢趣味で有名だ。家臣達にも嫌われている。
 しかし、だからと言ってサブマドに王位を――とならないのは、彼は根は優しいがプレッシャーに弱いからだ、とムルという友達に聞いたことがある。
「君は立派な王になるよ。父上が君に期待するのも、わかるよ」
 そう言ってサブマドは微笑んだ。杯を空にすると彼は立ち上がった。
「さぁ、それでは。おやすみなさい。僕に会見してくださってありがとうございました。――アリババ王」
 ぱたん、と扉が閉まった。
(俺が王か――)
 実は考えなかったことがないわけでもない。
 けれど――。
(俺もそんな器じゃない)
 周囲の期待に応えたい。そんなことを思った時もあった。だけど――。
 俺にはスラムの方が向いている。たとえゴミと呼ばれようと。
 だが、サブマドの訪問は嬉しかった。
 二人目の兄がいい人そうで良かった。
(さて、日記書いたら寝るかなぁ)
 その日書いた日記には、サブマドの絵も添えた。
 ――もし彼が見たら、
「僕は……こんなにいい男じゃないよ……」
 と恥じらうかもしれぬ出来だった。
 だが、アリババは自分には絵心がないと思っていたし――だいたい日記は人様に見せるものではない。原則的に。
(サブマド兄さん……アブマド兄さんとは随分タイプが違うな……)
 しかし、アブマドよりはだいぶ好感が持てた。
「おっと」
 風で日記帳がめくれた。そこに描いてあるのは親友のカシムの似顔絵。
(カシム、元気かなぁ……)
 いつかスラムに帰って行って、そこで暮らしながらいろいろと詳細を調べたい。今のスラムは心地良い場所というには程遠い。
 カシムやみんなに会いたい。あそこは自分には快適だったがそれは今は亡き母やカシム達がいたからだ。父にもスラムの生活水準を上げるよう、再三進言している。
 バルバッドをみんなが笑って過ごせる国にしよう。王にはなれなくても、それぐらいはできるはず。
 アリババは日記帳を閉じた。

後書き
アリババの子供時代です。
アブマドの株がいまいち低い……。まぁ、10巻読んだ時に私の見解も変わるのですが。
サブマドは出て来た時から大好きでした! 私、こういうキャラ好きなんですよ! アリババも好きなのは勿論ですが。
2013.4.5
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