「ばかぁっ!」
 そう叫ぶなり、アーサーはアルフレッドの家を飛び出した。
 原因は些細なこと。スコーンが不味かったとか、アーサーに悪口言ったとか、反対に彼に、
「昔のおまえは素直だったのにな……」
 と嘆かれたとか、まぁ、いつものことではある。
 でも、今日はそれが不幸にも積み重なった。とどめに出て来たのは、フランシスのことである。
「フランシスとでも誰とでも付き合う節操無しのくせして!」
 これがとどめだった。アーサーの翡翠色の大きな目が更に見開かれて、涙が溢れていた。
 アルフレッドは、相手を傷つけたのは自分だというのに、反対に心が傷ついたような気がした。
 泣かせるつもりはなかったのに。
 そして、ちょっとした押し問答の後、アーサーは冒頭の文句を吐くと、そのまま外に出て行った。
(……勝手にしろ)
 アーサーはフランシスに慰めてもらいに行ったのかもしれない。それも、勝手にしろ、だ。
(俺は、アーサーと対等なんだぞ、今は)
 だから、アーサーの心配をするのはお門違いだ。アーサーが好きなことをやるなら、俺だってそうする。
 部屋に戻ると、アルフレッドはレコードに針を落とした。レコード独特の音の浮きさ加減がちょうどいい。これは『リリー・マルレーン』だ。
 彼はCDをそんなに聞かない。レコードの方が味があって好きだからだ。
 だが、それもアーサーの好みであったことを、今のアルフレッドは忘れていた。

午前二時のエンジェル

 レコードを聞きながら、アルフレッドはベッドに寝転がっていた。
(眠れない……)
 本当なら今の時間は、恋人であるアーサーと過ごしているはずである。
 服を脱がして、白い肌を鑑賞し、甘いキスをして、そして――好きなことをする。
 それなのに……。と、彼は溜息を吐いた。
(また、傷つけたんだな、アーサーのこと)
 フランシスのことを言うんじゃなかった。後悔しても遅いけど。
 本気じゃなかったんだ。フランシスのことがあったって、アーサーはアーサーだ。愛しい恋人に変わりはない。
 悪口言うのだって、からかうのだって、アーサーが嫌いだからじゃない。むしろ、昔より恋が深まったからだ。
 アーサーにも、それがわかっていると思ったのに。
 でも、フランシスのことを話題に出したのは俺だ。アーサーは嫌がっていた……というか、あまり話題には出して欲しくなかっただろうに。
 若い頃の過ちは、誰にでもある。アルフレッドだって、人のことは言えない。
「アーサー……」
 熱い吐息と共に吐き出される彼の名前。
 今夜は眠れないかもしれない。
(何してるんだろう、俺……こんなの……ヒーローらしくないんだぞ……)
 俺をこんな風に作り変えてしまったのは、アーサー、君なんだぞ。
 ずっと昔から好きだった。――子供の頃から? いや、初めて会った時から。
 あの翡翠色の目が欲しかった。その持ち主も欲しかった。
 いつからだろう。己が素直にアーサーのことを『好き』と言えなくなったのは。
 ああ、そうだ。君のことを恋している、と自覚した時からだね。
 せっかく両思いになったのに、何やってんだ、俺。
 アーサーはフランシスとパブにいるのかもしれない。んでもって、自棄酒を飲んでいるに違いない。
 もう少ししたら、フランシスから『助けて』コールが来るんだ。きっとそうだ。
 それまで……待ってるんだぞ。
 フランシスと寝なかったら、アーサー、君のことは許してあげるから。
 とろとろと眠気が襲って来た時――突然、柱時計が鳴った。
 ボーン ボーン
「……二時か」
 いくらなんでも遅すぎる。連絡ひとつ入って来ない。
 もしかして……。
 アルフレッドの脇を冷たい汗が流れる。
 アーサーの身に何かあったのではないだろうか。
 たとえば、不良に絡まれたとか――いや、大抵の相手なら、アーサーの方でのしてしまうに違いないか。
 それから――騙されてどこかに連れていかれたとか。
 有り得る。アーサーは変にドジなところがあるから。
 ああ。アーサーの危機に、俺はどうして寝ようとすることができたんだろう。
 一応、フランシスの携帯に電話を入れてみた。
「ああ、フランシス。俺俺」
「俺なんて奴は知らないな」
「冗談言ってる場合かい! 俺だよ! アルフレッドだよ」
「アルフレッド?」
 不審そうな声が電話越しから伝わる。
「なんだよ。坊ちゃんと何かあったのか?」
 フランシスは察しがいい。
「や……うん、あの、ちょっと……」
「いつもの喧嘩かい。全くしようがないね」
 やれやれ、とフランシスが溜息を吐いた。息を吹きかけられたような気がして、アルフレッドの背筋がぞわーっとなった。これがアーサーだったら嬉しいんだけど。
「いいんだけどね、俺、今いいとこなんだよね」
「いいこと?」
 焦っていたアルフレッドは、つい発音を間違えた。
「わかるだろ? おまえさんが坊っちゃんといつもしていることさ」
 思い当ってアルフレッドは真っ赤になった。
「ひ……人のことはどうでもいいだろう。アーサーと一緒じゃないのかい?」
「だからね、お兄さんのベッドには今、美女が……ああ、すぐ戻るよ」
「マシューに言いつけてやる」
「俺が遊び人だってことは、マシューは先刻承知さ」
 自覚している分だけ、質が悪い。
「ま、一段落したら、お兄さんもアーサー探してやるよ。でもな、アルフレッド」
「何だい?」
「アーサーに何かあったらただじゃおかないからな」
 真剣な口調だった。電話は切れた。
「言われなくてもわかってるよーだ」
 アルフレッドは、携帯に向かって舌を出した。
 着替えて茶色のフライトジャケットを羽織り、眼鏡の『テキサス』をかけると、夜の街に飛び出した。
(アーサー……アーサー……)
 好きだ、好きだ、好きだ。
 ただ、それだけだ。
 アーサー、アーサー、アーサー。
 街路樹を走り、人にアーサーの特徴を喋り、礼を言い、いなくなっているのを見て落胆する。いったい彼はどこにいるんだろう。あんなに特徴的な眉毛をしているんだから、すぐ見つかりそうなものなのだが……。
 タクシーでも捕まえようか……そう思った時だった。
「アーサー!」
 アルフレッドはアーサーを見つけた。白いシャツにボウタイ、黒いズボン。彼は童顔なので、背丈が175センチもなければ、子供にも見えただろう。
「なんだ?」
 そう答えたアーサーは、いつも通りの表情で。
「アーサー、会いたかったんだぞ!」
 アルフレッドはアーサーに走り寄ると、がば、と抱き締めた。車のライトが彼らを照らす。
「んだよ。今日会ったばかりじゃねぇか」
 しかし、アーサーも満更でもないらしい。
「心配したんだぞ。どこ行ってたのか」
「わり。帽子見てた」
「帽子?」
「そ。おまえに似合うものをと思ってな。いろいろ物色してたんだ。独立記念日の時には渡せなかったからな」
 アーサーが俺の為にプレゼントを!
 幸せでふわふわになりそうな自分の心を押さえて戒め、アルフレッドは低い声で言った。
「俺は、本当に心配したんだぞ」
「うん……」
 アーサーは擽ったそうな顔を見せた。
「君が俺の言ったことで怒ったんじゃないかと思って」
「どんなこと?」
「フランシスのことを言って……君にとっては過ぎた話なんだろうにさ」
「ああ、そうだな」
 アーサーはけろっとしている。俺が悩んでいたのも知らずにこの人は。まぁ、気にしてないようだからいいものの……。確かに、現在進行形だ、と反駁されても落ち込むが。
 あれ? そういえばさっき、アーサーは独立記念日って言わなかったか? 今、ようやくそのことに気がついた。
「アーサー。俺の独立、認めてくれるのかい?」
「んなもん、とっくに認めてるっつーの」
 でも、つい最近まで、あの日、だの、七月四日だの、誤魔化して、とにかく独立記念日とは言ったことがなかった気がする。
「……帽子にすっか。ボルサリーノなんか、似合いそうだしな」
「あ……ありがとう、あ、そうだ」
 アルフレッドは携帯を取り出した。コール音が鳴って、フランシスが出た。
「やぁ、フランシス。アルフレッドだけど、邪魔して悪かったかい?」
「おお、アル。坊ちゃん見つかったかー?」
 フランシスの声は、なんだかいつもより疲れきっているような感じがした。覇気がない。
「見つかったよー。ありがとう。君も心配してくれてたんだね」
「うん。まぁね。その……アーサーのことはおまえに任せてあるから」
「ああ。俺はヒーローだからね!」
「ま、つまりはそういうことだ。あんまり坊っちゃん泣かすんじゃねぇぞ。悪い奴じゃないけど、どっかずれてるからな」
 今度はアルフレッドがピッと通信を切った。
「なんだって?」
「フランシスさ。君が彼のところにいないかと思ってさ。なかなか帰ってこないから」
「な……そんなわけないだろ、ばかぁっ!」
「何ムキになってんだい。ははぁ、さては、君が浮気してると俺が疑っているんじゃないかと、勘違いしたのかな」
「ば……ばかっ! 誰が」
 アーサーがムキになると、アルフレッドが大声で笑った。
「昔はともかく、今はそんなこと全然ないんだぞ」
 これは少々嘘でもある。フランシスとアーサーが一緒に笑い合っていると、今でも動悸が少しだけど苦しい。
「とにかく、いいと思った帽子見せてくれよ」
「ああ、あれだ」
 アーサーがディスプレイのボルサリーノを指差した。
「じゃ、早く買おうじゃないか。家にも戻りたいしさ」
「う……でも……俺、金ないし……」
 アルフレッドの家にある自分の上着の中に忘れてきたというのだ。
「だから、ウィンドーショッピングだけでもって……うわっ!」
 アルフレッドがアーサーの唇にキスを落とした。
「俺には、どんなプレゼントよりも、君が一番!」
「こ……公衆の面前で何すんだよ、ばかぁっ!」
 アーサーはどんどんとアルフレッドの広い胸を叩いたが、動じない相手に諦めたようだった。
「俺、持ち合わせあるから、建て替えてあげるよ」
「ああ……そうしてくれ……わりぃな……」
 疲れたみたいに呟いたアーサーは右手で両方の目頭を押さえた。
 帽子を手に入れると、アルフレッドはそれを被った。
「似会うかい?」
「ああ、似合うよ。いっぱしの紳士だ」
 アーサーが眩しそうにうっすらと微笑んだ。
「じゃ、これからお楽しみタイムね」
 アルフレッドがアーサーをお姫様抱っこした。
「うわぁ、降ろせよ、ばかぁっ!」
 アーサーが僅かに抵抗を試みるが、アルフレッドの力には敵わない。
「はいはい。ベッドに着いたらね」
 街を歩いている人々は、その光景を見て多少びっくりしたらしいが、その後、温かい目になって彼らを祝福するように眺めていた。中には口笛を吹いたり、拍手を送る者さえいた。
「みんな、ありがとー!」
 アルフレッドがアーサーを抱えながら、嬉しくなって声を張り上げる。彼はきっと、世界中で一番の幸せ者だ。
「どんな羞恥プレイだよ、ったく……」
 アーサーは文句をぶつぶつと言っていたが、そう嫌がっているようでもなかった。
 ベッドに入ったら何て囁くかって? 決まっている。
 君は俺の天使だよ、アーサー。

後書き
最後の方、少し直しました。こっちの方がいい。
2010.9.22
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