愛知らずな男

「虎徹くん。あなたって、愛知らずな男よね」
 妻の友恵が言った。
「え……?」
 何言って――と虎徹は続けようとした。が、友恵に機先を制された。
「あなた、私のこと、愛していないでしょ」
「んなわけねーだろ!」
 虎徹はつい怒鳴ってしまった。
「愛してなきゃ結婚してガキ作ってるはずねぇだろ! 俺にはおまえしかいねぇよ!」
「そうね。あなたは皆に優しい――昔からそうだったわ」
 何だか――会話が噛み合っていないような気がする。
 虎徹はトレードマークのキャスケットを直した。
「そりゃ……おまえと楓は愛しているよ」
 鏑木楓――友恵との間にできた一粒種。
「でも……私がどんなに愛しても、あなたは私の欲しい愛はくれない……愛が……欲しいわ……」
 友恵の手の甲に涙が一滴、落ちた。
 そんなこと、決して言う友恵ではなかった。いつも、温かかった。いつも、優しかった。
 慣れぬ入院生活で疲れたのだろうか。
「ほら、もう寝ようか――おお、そうだ。楓からおまえの写真撮ってきてくれって頼まれてたんだ。一枚頼むわ」
「――こんな格好でいいのかしら」
「おう。楓だってきっと喜ぶさ。ママがこんなに元気になったよってね」
「まぁ……」
 涙を浮かべたまま微笑む友恵は、それは綺麗だった。
「一枚撮りますよー。はい、チーズ」
 虎徹が写真を撮り終えると、友恵は言った。
「わがまま言ってごめんなさいね。もう大丈夫よ」
 そして、今度はひたと虎徹を見据えて言った。
「あなたが本当の愛を育めるようになることを祈っているわ」
 そして――静かに横になった。
「愛しているよ、友恵」
 虎徹は優しい声で呟いた。
『愛知らずな男』――その台詞は、それからしばらく忘れていた。友恵が死んでからも。
 ――何で、こんな時に思い出すんだろうなぁ。
「ああ、ひどい降りですねぇ、虎徹さん」
 バーナビーの美声が耳をくすぐる。
 ただ、彼は窓の外を見て、思ったことを口に出しただけなのに。
 何でこう、ドキドキするんだろう……。
 外は、土砂降り。空は藍色の雲に覆われている。
 濡れ鼠になった二人は空き家で服を乾かしている間、全裸でタオルケットにくるまっていた。
 幸い、事件は解決したからいいようなものの……。
「へっきしょーい!」
「おじさんくさいですよ。そのくしゃみの仕方」
「うるせぇ、生理現象だ」
 だから、この胸の高鳴りも、多分、生理現象だ。
 虎徹はそんな理由で片付けようとした。
「雨、やみそうにありませんね」
「ああ、おまえも災難だったな」
「……何がです?」
「どうせ雨に降りこめられるなら、可愛い女の子が相手の方が良かったんじゃねぇか? ブルーローズとかさ」
「そんな想像しないでください」
「――はいはい」
「むしろ僕は――貴方とで嬉しいんです」
 ――何だって?
 虎徹は耳を疑った。
「こんなおっさんと二人きりが嬉しいのかよ。バニ―ちゃんは」
 笑いながらも、ちょっと用心した方がいいかも――と思う虎徹であった。
 バーナビーは、虎徹をじっと見ながら言った。そして、隣に座る。
 柑橘系の爽やかな香りがふわりと漂う。バーナビーは耳元で囁いた。
「虎徹さん……貴方、本当の恋をしたことありませんでしょ」
「な……!」
 虎徹は動揺した。
「じゃあ、おまえはしたことあるって言うのかよ!」
「ええ!」
 バーナビーの瞳がきらりと煌めいた。雷が近くに落ちたようだ。
「貴方が――教えてくれたことなんですよ。貴方は薄情な人です」
「薄情?」
 長いヒーロー生活、熱血漢だの、壊し屋だのは言われたことはあるが、薄情は言われたことがなかった。
「どうして俺が薄情なんだよ!」
「僕の気持ちも知らないで」
 ――え?
 それってどういうこと?
「くそっ。僕もこんなこと、虎徹さんに言うつもりなかったのに……」
「バニ―ちゃん……」
 もしかして、バニ―もドキドキ、してるの、か……。
 虎徹はバーナビーのタオルケットに手を伸ばした。
「な、何するんですか……!」
「いや。バニ―ちゃんも俺と同じかなぁ、と思って」
 バーナビーの心臓に触りたかった。触れて、温かみを共有したかった。
「どこまで人たらしなおじさんなんですか……」
 何だそりゃ? 女たらしなら聞いたことあるけどな。
「バニ―ちゃん、もしかして恥ずかしい? んなわけないか。男同士だもんな」
「僕は同性相手にでも、迂闊に裸になるような趣味は持ち合わせていません」
「じゃ、その年で童貞? 冗談キツイよ、その顔で」
「悪いですか?」
 バーナビーは些か気分を害したようであった。
 そういや、こいつの恋の話って、聞いたことないな……。
 ちょっとは誰かにときめいたことはなかったんだろうか。それとも、その体は木石でできているのだろうか。そんな馬鹿な。
「学生時代に一度だけ……機会めいたものはありました」
 バーナビーは正直に告げた。
「けれど――相手の人が、急に体調を崩しましてね……キス止まりでした。その後、彼女は病気で……死にました」
 バーナビーの彼女だった相手は、かなり長い間患っていたらしい。彼女はそのことを隠していたが、いざ経験しようとすると、興奮と緊張で発作が起きたのだと言う。
「僕も……あの時はかなり焦りました……。あの後、何度か他の女の子から告白されましたが、彼女以上の人はなかなか見つからなくて――だから、僕は今でも――」
 童貞なんです、とバーナビーは小さな声で話した。横顔が炎の色に染まっている。
 こいつは木石なんかじゃない。ただ、愛するチャンスを見失っただけだ。
 神様! 誰でもいい、この男に本当の愛を教えてやってくれ! 頼む!
 俺は――鏑木虎徹はこのバーナビー・ブルックス・Jrが哀れでならない。
 人生の大半を復讐に生きた彼が。初恋も実らなかった彼が。全てを持っているようでいて、本当に欲しい物を手に入れられなかった彼が。
 しかし、そんなことはおくびにも出さず、
「……気の毒だったな」
 としか言わなかった。
「僕はきっと、愛を知らなかったんでしょうね。けれど、ようやく見つけた彼女以上の存在も、そうなんですよ」
 バーナビーは薄く笑った。
「誰なんだ? それは」
 バーナビーが童貞を守り続けた相手以上の存在とは――。
 彼は手を出すと、虎徹を指さした。
「貴方です」
 しばらく沈黙が下りた。雨と雷の音が響く。
「な……何言って……! バニ―ちゃん……!」
 慌てた虎徹は、必死で言葉を探した。
「わかってますよ。僕も無理強いしたくありませんから」
 やっぱり……今日のバニ―ちゃんはおかしい。
 こんなこと言って、後で後悔するだろう。その時は、
「ああ、冗談だったんだろ?」
 と、笑ってやるのが思いやりと言うもんだ。
「後悔しませんよ。僕は」
 何て綺麗な緑色の瞳だろう、と虎徹は思った。その目が今、虎徹に向けられている。
 この恋情を、虎徹は知らない。
 若いとは、何と羨ましいことだろう。経験の足りなさは、勢いが補ってくれる。
 でも、俺は――
「なぁ、バニ―ちゃん。俺の女房がさ――俺のこと、『愛知らずな男』って言ったことあんだよ」
「――当たってますね」
「だよなぁ。俺、友恵とは一緒にいて落ち着くから結婚したんだから。まぁ、俺は友恵も愛してるんだけどさ」
「気にしません。僕は……」
「おまえみたいに、純粋に誰かを想うなんてことできねぇよ、俺には、もう……たとえバニ―ちゃん相手でも」
 だけど、さっき俺は、バニ―ちゃんに本当の愛を教えてくれる存在が現われることを、神に祈ったではなかったか――。
 まさか、その対象が俺だとは思いもよらなかったが。
「貴方が誰を気にかけようと、僕は勝手に想ってますから」
「おまえは頑固者だな」
 でも、そういうとこ、好きだぜ。そして、バーナビーの髪をくしゃくしゃにする。
「やめてください。子供扱いするのは。貴方はやっぱり『愛知らずな男』ですよ。愛している者から優しさのおこぼれを頂戴するのが、どんなにみじめで屈辱的か、わからないんですよ」
「そっか……そうだな」
 バーナビーには、年が若いながらも男としての矜持がある。虎徹はそれを尊重することにした。
 暖炉の傍に吊り下げられた衣服はまだ乾きそうにない。
「まだかねぇ」
「……虎徹さんは、早く帰りたいですか?」
「そうだな。そして熱燗をきゅーっと一杯」
「僕は……ずっとこのままがいいです」
「そっか……風邪ひくぞ。ここは寒いからな」
 だけど、俺もバニ―ちゃんとならこのままでもいいかな――密かに、こんな時だというのに、照れてにやけそうになる顔を元に戻そうと試みる虎徹であった。
 どうせこの至近距離だ。ばれているであろうが。
 俺みたいなヤツでも、少しはバニ―ちゃんを幸せにすることができるのだろうか。
 愛知らずな男の心にも、この日、ぽっと灯りが点いたようだった。
 しかし、虎徹は知らない。バーナビーの愛が、どんなに激しい燃えるような熱い想いなのかを。
 まだ、知らない。

後書き
どんな事件を解決したのか気になる……。
病気で亡くなった女の子も可哀想にねぇ。一応『レナ・アリントン』という名前をつけました。
2012.4.21

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